恋より先に愛を知る
トイレで涙を拭いて化粧を直すと、
私は階段を一つずつゆっくりと上がっていた。
途中、男の人とすれ違って、咄嗟に顔を隠した。
だってあの人、彼の先輩だもの。
一緒に舞台に立つ先輩で、
私も面識があるから見つかると大変。
万が一、
億が一、
彼に知られたら台無し。
急いで階段をのぼり、5階で私は立ち止まる。
入ってすぐ右に曲がり、
暗がりの廊下を一人、ゆっくりと歩いた。
左右いくつも並ぶ扉の数を数える。
ここは練習室。
こんなに部屋があったのね。
こんなにあるのに、練習室はいつも順番待ち。
だけどその順番を待つ時間が、私は好きだった。
ここのピアノはダメだーとか、
ここのピアノは好き!とか。
駄菓子屋のガムについている
当たり外れを楽しむ子供のように、
いつもわくわくだっのを覚えている。
いくつかの部屋の前で止まって、
ぼうっと眺めた。
ここで、
一緒に歌ったり、弾いたりしたなあ。
彼が歌う。私が弾く。
私が歌う。彼が弾く。
音楽に触れている時間が一番楽しかった。
なにより音楽を楽しむ彼を見るのが、好きだった。
どこへ行っても、彼との思い出。
もう抗えない。
彼との思い出に触れずに
この先ここに通うのは無理なのかもしれない。
だってこんなにも、
こんなにも、懐かしくて胸が焦がれるんだもの。