君色のソナチネ
俺の不安をよそに、彼女は再び鍵盤に手を乗せ疾走し始める。
ーベートーベン ピアノソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27-2
ーー''Sonata quasi una Fantasia''
–幻想曲風ソナタ
ーーー第3楽章 Presto agitato
別名『月光』とも呼ばれ、日本人にも親しまれるこのソナタは、その名の通り、月の光を想わせる穏やかな第1楽章から始まる。
その第1楽章冒頭の動機を隠しながらも、確実にそれを土台として、急速に演奏される、第3楽章。
めまぐるしく展開していく旋律。
激しい強弱の移り変わり。
支配される響き。
流石はベートーベンといったところか。
そして、またも完璧に弾きこなす純怜に再び度肝を抜かれる。
感心しているはずだった。
感動もしているはずだった。
しかし、曲の勢いが増すほど、今の俺にはその音楽が空虚に聴こえてくる。
何故だ…?
彼女の中の矛盾に気がついたからだろうか。
それでも今までの心の揺さぶられ方を思うと、感動くらいしてもいいはずだ。
そして曲の盛り上がりが最高潮にまで達した時。
ついに俺には彼女のその演奏が''聴こえなくなった。''
ーーー…助けて。ーーー
その時、ふと聞こえてきた純怜の声。
弱くて、か細い。
しかしその消えかかった声は、虹色に輝く演奏よりもはっきりと俺の胸に届いた。
重く、
大切で、
かけがえない。
ーーー…あぁ、そうか。ーーー
俺は純怜の演奏が''聴こえなく''なった訳ではない。
''聴けなく''なったのか。
たぶん、聞こえてきた''声''は、紛れもなく本物の純怜の声だ。無限に広がる純白の中に取り残されている純怜の声だ。
その声を拾うために俺は七色に飾られた演奏が聴けなくなった。
彼女の演奏は素晴らしい。
素晴らしいからこその麻薬的な中毒性があるのではないだろうかー?
その中毒性が観客を虜にしているのではないだろうかーー?
俺もそれに捉えられ、ある意味夢を見せられていたのではないのかーーー?
その事に今更ながら気づく。
「俺とした事が…。」
本当の彼女を見ていなかったのかもしれないと反省した時、ちょうど彼女の演奏が終わる。
怒号の様に鳴り響く拍手にブラボーの声。
俺の意識の外でホール全体が揺れる。
もし俺のその仮説が本当だとしたら、これは危なくないか?
彼女の無限に広がる純白の世界がバラバラに崩れ始めた時、闇に飲みこまれていく彼女を想像して身が震える。
何かに突き動かされる彼女。
その何かに彼女が触れ、気付き、記憶が呼び戻された時、俺はもう2度と彼女の演奏を聴けなくなるかもしれない。
ーーー俺が何とかしなければ。ーーー
そう思うのと身体が動くのは同時だった。
純怜のおじいさんとおばあさんに声をかける事も忘れ、
間に合ってくれ!!!
ただただそれだけを願い走っていたーーーー