ビタージャムメモリ
「…私がお願いしたんです。歩くんには、もう少し時間をあげてほしかったので」
「香野さんが?」
「年明けでも急ぎすぎなくらいだと思ったんですが、それが限界だということで、それこそ、ええと、脅迫のような真似をして…」
歩くんの居場所を知りたかったら年内なんてあきらめてください、とそんなようなことを言ってきたのだ。
我ながらでしゃばった気がして、顔が熱くなる。
恥ずかしさをごまかすようにグラスのお酒をぐいと飲んだら、急にくらっと来た。
さすが、ウイスキーを生で飲むって、効く。
先生、よくこれを平然と何杯もいけるなあ。
そう思って向こうを見たら、目が合った。
「本当に、お礼が追いつかないね」
あんまり優しい微笑みだったので、酔いが見せた幻覚かと思った。
落ち着いた明かりの、音ひとつしない部屋の中で、先生が私だけに、こんなふうに笑ってくれるなんて。
先生が短くなった煙草を携帯灰皿に入れて、新しいのを取り出した。
ライターを何度かカチカチやってから、あれっという顔をする。
「つかないんですか」
「そうだね」
煙草を挟んだ指を口元にあてて、何事か考えているみたいだ。
けど一向に動き出す気配がない。
「どうかされましたか?」
「いや、自分の部屋に別のライターがあるんだけど、取りに行くのがめんどくさいなと思って」
「先生でも、めんどくさいとか、思うんですね!」
いかにも勤勉な印象を受けるだけに意外で、つい大きな声を出すと、笑われた。
「そりゃ思うよ、今なんて、立ち上がるのすら面倒だ」
「私、取ってきましょうか?」
「とんでもない。座ってて」
煙草が吸えなくなってしまって手持無沙汰なんだろう、先生は伸びをひとつすると、背もたれに頭を預けて、深い息をついた。
忙しい一年だったに違いない。
長年手塩にかけてきた技術を、最高のタイミングで世に出せるかどうかの戦いをしてきた年のはずだ。
「…年末年始は、お仕事は入らなそうですか?」
返事がなかった。
先生を見ると、静かに目を閉じていた。
額に軽く置かれた手が、顔に影を落としている。