ビタージャムメモリ
…寝てしまったんだろうか。

そこまで疲れているのなら、早くお暇しないと。

そう思った私は、声だけかけて帰ろうと、腰を上げて先生のそばに寄った。

立つとますます酔っているのを自覚する。


あの、と近くで声をかけても、先生は目を開けない。

涼やかな目が、じっと伏せられているのを、なんだかすごく貴重なものを見ている気分で眺めた。


私は確かに酔っ払っていたんだと思う。

ふと、眼鏡のない顔を見たくなって、手を伸ばした。


少し向こう側に傾けられた顔を覗き込みながら、すっきりしたデザインのフレームに指をかけた瞬間、レンズの奥の目が、ぱっと開いた。

先生が、はっと身体を緊張させて、こちらを見る。

手をつかまれて、はずみで眼鏡が落ちた。



「あっ、ご、ごめんなさい!」



寝ていた自覚がないんだろう、先生はぽかんと私を見つめて、何も言わない。

間近で視線が絡む恥ずかしさに、耐えられない。

手をつかまれたままなので、眼鏡を拾うこともできず、なんてバカなことをしたのかと我に返る。

真っ赤であろう顔を空いた方の手で隠して、ひたすら謝罪した。



「すみません、失礼しました、私、あの、もう」



手を離してほしくて、ぎゅっと自分の方に引き寄せる。

たぶん反射的に、先生はそれを封じるように引っ張った。

私はよろけて、ソファの背に手をついて、かろうじて先生の上に倒れ込むのを免れたんだけど。


誓ってこの時、何かを期待していたわけじゃない。

先生も、そんな流れに持っていこうとしたわけじゃないと思う。


でも確実に、空気が変わった。


かなり長いこと、私たちはお互いをじっと見ていた。

やがて先生の手が、私の頬に触れて、そこから後ろへなでるみたいに耳に、髪に指が絡む。

その手は決して私を引き寄せようとはしなかったんだけど。

私の方がもう、限界だった。


ほんの少しの距離だった。

わずかに動くだけで、唇が触れ合う。

それでも私は、自分でその間隔を全部詰める勇気はなくて、寸前で硬直してしまったのを、きっと先生は見透かした。

1センチにも満たない、最後の空白を埋めてくれたのは、先生。


重なった唇は温かく、乾いていた。



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