ビタージャムメモリ
16.ブレイクスルー
「歩…!」
先生の呼ぶ声は、音になっていなかった。
歩くんはリビングの顔ぶれに目を走らせ、最後に先生を見る。
それから、どうしていいかわからないみたいに、小さく笑った。
「弓生とメシだっていうから、その隙にって思ったのに。なんでいんの、巧兄」
「歩…」
「楽譜とCD、取りに来ただけなんだけど」
歩くんに連絡したのは私だ。
だから今日はごはんいらないよって伝えるために。
歩くんは、やったじゃん! とすぐに返信をくれた。
あちこちをさまよっていた視線が、ちらっと梶井さんに向く。
その複雑な表情は、先ほどの話を、聞いていたんだと伝えていた。
「歩、後で話そう、今は…」
「なんで? 俺の話だろ、俺も入れろよ」
「歩」
先生の制止を無視してリビングに入ってくる。
いつも着ているネイビーのモッズコートのポケットに手を入れたまま、私のすぐ横まで来ると、ソファに座る梶井さんをじっと見つめた。
「あんた、俺の父親だって?」
「…そう信じてるよ」
控えめに微笑んだ梶井さんに、そう、と歩くんはうなずく。
「俺もそれ、ほんとだと思うよ。なんとなく感じる」
その言葉は"父親"に、衝撃をもたらしたらしい。
梶井さんは見上げる目を大きく見開いて、声を詰まらせた。
歩くんは視線を隣に移すと、よお、と挨拶をする。
「父親が誰だかわかんねーってだけで最悪だったのに」
「…歩」
「よりによって、不倫でできたガキって」
自嘲するように笑う声は、ささやきに近い。