ビタージャムメモリ
「そりゃ捨てたくもなるよな」
「歩、捨てたんじゃないの、私」
「ま、それはいーや。ここ座っていい?」
打って変わってあっけらかんとした態度になり、歩くんは誰の応えも待たず、私の隣に座った。
さっきまで先生が座っていた場所だ。
「土曜に話すつもりだったけど、今でもいいよな。その前にまず、確認しときたいんだけど」
正面の梶井さんに向かって、気負う様子もなく話しかける。
凍っていた空気が、再び流れだした。
立ち尽くしていた先生は、我に返ったようにはっとし、こちらに戻ってくると、歩くんのソファの背に腰かけた。
「確認とは、何をかな」
「えーと、俺に声かけたのってさ」
「あ、誤解しないでね。確かに歩くんに注目したのは、かすみさんから事実を聞いてからだけど、あくまできみに惚れ込んだから声をかけたんだ」
「ありがと。なら、もう少し待ってもらうことはできる?」
「待つ、とは?」
首をかしげた梶井さんに、歩くんは言葉を切って、視線を落とす。
「俺、大学に行きたいんだ」
思わず、彼のほうを見た。
膝の上で手を組んで、自分の気持ちに一番合う言葉を慎重に探しているみたいに、じっとその手を見つめながら話している。
「もっとちゃんと、音楽の勉強したいんだ。でも俺、試験も受けてないし演奏会も出てないから、今年は卒業できない。もう一度3年やらないと」
「じゃあ、音大に行きたいということ?」
「そう。学校に訊いたら、ダブっても選抜の参加資格はもらえるって」
「自分で訊いたのか」
思わずといった感じに、先生が尋ねた。
歩くんはバツが悪そうにうなずく。
「そうだよ。でも俺、2年の時もサボりがちだったから、その分のレッスン受けるのが進級の条件で、最近よく出かけてたのは、そのせい」
最後の説明は、私に向けたものだった。
バイオリンを持って、終日どこかに行っていたのは、そのためだったのだ。
誰にも頼らず、自分で学校と交渉して。
目標のために。