ビタージャムメモリ
「正直、昔はもう少し女の子らしい響きの名前だったら、間違われることも少なくて楽だったのになんて思いもしましたが、今は気に入っていて」
「ぴったりだよ」
「そうですか?」
「推進力のあたりなんて、特に」
にこ、と眼鏡の奥で、瞳が微笑む。
あれっ、近い、と思った時には、唇が重なっていた。
「呼ばなきゃもったいないね」
ささやきは口移しみたいに、唇に直接伝わる。
頭にあった手が、いつの間にかうなじのあたりまで下りて、優しく私を引き寄せた。
ゆっくりと楽しむ落ち着いたキスは、この間のとは全然違って、私もどうにか自分を失わずに済む。
でも先生、名前呼んでくれてない。
ちょっとした不満を見透かしたのか、先生は聞かない子の気をよしよしと逸らすみたいに、弾むキスを最後に何度かして、笑った。
それはたぶん、大人にも照れくさいことがあるんだよ、みたいなことを伝えたいんだと、なんとなくわかった。
「さ、迎えに行くか」
「制限時間つきですもんね」
「次やったら、どうしてやろうかなあ、あいつ…」
ぶつぶつ言いながら車を出す横顔を眺める。
「先生」
「ん?」
「さっき、SAで、どっちに妬きました?」
歩くんと、私と。
先生の口が、何か答えるために開いたものの、そこから言葉は出てこなかった。
目があちこちを探り、正面に戻る。
やがて先生は唇を噛んで、片手を額に当てた。
「ほんと、癪だ…」
本気で悔しそうだったので、笑ってしまった。
私たち三人の中で、先生の心がきっと一番複雑だ。
"巧兄"以外目に入っていなかったような歩くんが、先生以外の誰かに気持ちを向けているのを、たぶん初めて目の当たりにして。
大事に大事にしてきた宝物を、いきなり他人と共有しなきゃならなくなったような、そんな気分なんだろう。