ビタージャムメモリ

『僕に犯罪をしろと?』

『もうすぐ二十歳です』

『充分に子供だよ、少なくとも、31歳の僕からしたらね』



もう帰りなさい、と研究室の片隅で、先生は人目をはばかるように、低く言った。

当時、私の通っていた大学は校舎を建て替え中で、プレハブだった教職員棟は、会話が廊下まで筒抜けだったからだ。

特に非常勤の彼の部屋は、他の講師と共有で、たまたま誰もいなかったとはいえ、いつ誰が戻ってくるかわからなかった。



『先生』

『その呼びかたはよして、柄じゃない』

『どうしてもダメですか』

『どうしたってダメだね』



さよなら、と私を廊下に押し出す。

電熱ヒーターで温められていた部屋から、凍えそうな廊下に出た影響で、私は間抜けにも、くしゃみをひとつした。


すると閉まりかけていたドアが、なぜかまた開いて。

うつむく私の顔のまわりを、柔らかい感触が包んだ。



『気をつけて帰りなさい』



顔は上げられなかった。


シックなグレーのマフラーに巻かれて、涙を我慢する私を、慰めることも励ますこともなく。

先生は静かに、研究室の戸を閉めた。



(あのマフラー、どうしたっけ…)



捨てたはずはないけれど、どこにあるかわからない。

記憶ってこうも都合よく、部分的に目隠しをしてくれるものなのか。


もしかして捨てたんだったか。

いや、自分にその思い切りがあるとは思えない。



「弓生、大丈夫?」



ぐるぐると記憶の渦に取り込まれはじめた私に、早絵が心配半分、呆れ半分の声をかけた。



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