ビタージャムメモリ
ぎょっとして見回すと、黒いスチールの机や本棚といった、いかにも男性的な雰囲気の部屋の、椅子の背に見慣れたレースが引っかかっている。

とっさにそれに手を伸ばした時、ノックの音がして、返事をする間もなくドアが開けられた。



「歩、起きてるなら昼食に…」



入ってきたスーツ姿の人物は、私を見ると、目を丸くした。

とはいえ状況からすると驚くほど冷静で、失礼、と言って再び出て行こうとする。

その顔が途中で何かに気づいたように、もう一度私に向いた。

巧先生の目が驚愕に見開かれていくのを、私はベッドの上で、身体を隠すのも忘れて、震えながら見ていた。



「…香野さん?」



ねえ、なんで。

何これ。



「巧兄、俺こっち」



部屋の外から声がして、お互いはっとする。

想像するに、この部屋の外は廊下で、その声の主は、どこか別の部屋から出てきたようだった。

巧先生のうしろから、甘えるように首に抱きついて、いかにも眠たげに顔をこすりつける。



「お帰り、出張お疲れ」

「ただいま、お前、リビングで寝たのか」

「だってベッド占領されちゃってさ」



目の前の会話は、およそ現実とは思えない。

先生は背後を振り返りながら、私のほうを目で示してみせた。



「歩、彼女は、どういう…」

「さあ?」



黒髪が先生の肩口から離れて、綺麗な顔が現れた。

先生に抱きついたまま、私に向かってにやりと目を細める。

口調だけはそれまでと同じ、甘えたトーンで。



「知らない女」



歩くんはそう言い放った。



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