ビタージャムメモリ
「香野さん、会議室の準備ができたって、秘書室から」
「ありがとうございます」
いよいよだね、と親指を立てた先輩が、私の顔を見て、目を丸くする。
「そこまで緊張しなくても」
「…顔に出てますか」
「真っ青だよ」
代わろうか? とまで言い出してくれる始末で、私はもう、どうしたらいいものか、混乱した。
しっかりしろ、しっかり。
まだ本当に、巧先生と決まったわけじゃないんだから。
巧先生だったとしても、ここで逃げたところで、仕方ないんだから。
心配そうな先輩に、大丈夫です、と返して、取材サイドから届いたインタビューシートを再度確認する作業に入った。
果たして巧先生だったのだ。
内線の声を聞いた瞬間、心がくじけた。
『技事の眞下といいます、香野さんを』
「はい、あの、今すぐ参りますので、お待ちを」
返事を聞く余裕もなく、受話器を置いて席を立った。
先生だ。
あの声だ。
大学二年生の頃、週に一度だけ聞くことのできた声。
落ち着いて、よく通って、どんなに態度の悪い学生相手にも、決して荒げられることのなかった声。
廊下に飛び出した私を、冷静な一瞥が迎えた。
長身に、グレーのスーツをぴたりと身にまとって。
私があまりに唐突に切ったせいだろう、内線電話の受話器をまだ手に持っている。
声が震えた。
「お、お忙しい中、ありがとうございます、先方はもう、いらしていますので、ご案内いたします」