ビタージャムメモリ
吹かせたくもなる年齢なんだってば!

鬱陶しそうな顔をする歩くんに、そっちこそ少しは敬えと言ってやりたくなった時、ふいに肩を押された。



「弓生はそっちで待ってて」

「え?」



廊下の左手にある鉄のドアを指してそう言い残すと、自分はそのまま廊下を進む。

私はよくわからないまま、指示されたとおりにドアを開けて、その向こうにあった空間に目を丸くした。

渋い赤の絨毯に埋め尽くされたフロアに、アイボリーのソファ席がいくつも並んでいる。

天井には輝くシャンデリア。

フロアの中央にはグランドピアノが1台置いてあり、女の人が曲を奏でていた。


私のくぐったドアはフロアの隅っこの目立たない場所にあり、スタッフ用の出入口らしかった。

照明の光の届かないそこに、ぽつんと立ったまま、ソファを埋める人々を見回す。

スーツの人も私服の人もいるけれど、一見して、上等な人たちの集まりだとわかった。

クラブというより、サロンと呼びたくなる感じだ。


ふとピアノの音が止んで、女性が席を立った。

フロアを横切って、入れ替わりにそのスペースに現れたのは、歩くんだった。


バイオリンを持っている。

…え?


歩くんは軽く一礼をすると、おもむろに弓を弦に当てる。

艶やかな飴色の楽器から流れ出てきたのは、私でも知っているジャズの名曲だった。

あくまでBGMなんだろう、奏者や音が主役にならないように、照明や音響が工夫されているのがわかる。

それでもその澄んだ音色に、フロアの人々が注目した。

中には歩くんが来るのを待ちわびていたように、相好を崩して聞き入る人もいる。

私はぽかんとして、突っ立ったままその様子を見ていた。


途中、年配の男性が登場してピアノの前の椅子に座り、満を持したように伴奏を始めると、音は一気に華やかさを増した。

歩くんは古典も織りまぜながら、次々と曲を奏でる。

なんて綺麗な音だろう。

それに、なんて楽しげに弾くんだろう。



「戻ってきてくれてよかったですよ」



ふいに声をかけられて横を見ると、いつの間にかさっきの男の人が立っていた。

滝沢(たきざわ)さんというのだと聞いた。

フロアの中央でライトを浴びる歩くんを満足げに眺めながら、ひそめた声で話しかけてくる。

< 62 / 223 >

この作品をシェア

pagetop