ビタージャムメモリ
"なんにも見えない"
幼い歩くんは、そう言って、歩くことを拒否したんだそうだ。
まだ花火が上がる前の、夕暮れた空の下でさえ、歩くんの視力は極端に落ちて、本人に言わせれば「真っ暗」だった。
「僕はびっくりしてね。医者に見せたら栄養失調だと。それを聞いてまずいと思ったのか、姉は歩を実家に置いたまま、突然行方をくらましたんだ」
「え…」
「姉を探すうち、歩がどんなふうに育てられてきたか、というか、育てられていなかったかを、僕たち家族は知ることになった」
先生は組んだ足に頬杖をついて、ひどかった、とぽつりと言った。
「まだ赤ん坊の歩を、仕事仲間や近所の家に押しつけたりはざらで、大きくなるとコンビニのパンや惣菜を置いて、数日留守にすることもあったと」
「そんな…」
「その後、歩は僕の実家で、僕の母に育てられた。今の高校に通うことが決まった時、実家を出て僕と暮らすことにしたんだ、近いから」
その前から、歩くんは先生になついていたらしい。
お兄さんのような親のような、そんな存在だったんだろう、いつも先生の帰省を待ちわびて、長い休みには先生の部屋に泊まり込んだりもしたそうだ。
私は繋いだ手を見つめた。
病院で握られた時、驚くほど冷たかった歩くんの手は、今ではほかほかと熱を持っている。
「…歩くんのお母さんて、今は」
「結局行方知れずのままだったんだけどね、歩が高校に上がった頃、突然また現れたんだ、歩を返せと言って」
「いきなりですか?」
そう、と先生はうなずいた。
「歩が大きめの全国コンクールで優勝した直後だった。どこかで聞きつけて、そういう息子なら手元に置いても悪くないと思ったんだろう」
「そんな、勝手な…」
「僕も母も心底腹が立って、姉を歩に会わすまいとしたよ。ところが彼女は歩の学校まで押しかけて、母親だと名乗り出た」
歩くんの前髪を、小さな子にするみたいにかき上げて、額をなでながら言う。
「歩は相手にしなかったらしい。姉はあきらめてまた消えた。でもその後、歩は音楽に対する熱を急に失って、学校にもあまり行かなくなった」
「今でも…?」
「そうだね、今でも」