性悪女子のツミとバツ

「ただいま。」

ネクタイを緩めながら、彼がリビングに入ってくる。
私は小さな声で、お帰りなさいと呟いた。
その声が届いたのか、彼は少し安心したように表情を緩める。
こんな風に毎日、私が確かに“帰宅”していることを確かめてから、彼は寝室へと着替えに向かう。
その背中を、彼に気付かれぬように視線だけ動かして見送った。


退院してから一ヶ月近く、私は田村さんに言いくるめられて、彼のマンションに居候していた。
同棲ではない。
私たちは恋人同士ではないから、あくまで同居だ。

『不眠の症状が改善するまでは帰さない。』

彼にそう宣言されて、自宅の鍵を没収された。
不本意だったが、私は助けてくれた彼に堂々と刃向かえるほど恩知らずでもないし、一人きりのアパートで眠れる気はまるでしなかった。


「今日も、うまそう。」

いつの間にか、着替えてきた彼がキッチンを覗いていた。
私は驚く素振りを見せないように、努めて冷静に切り返す。

「豚の生姜焼き。焼いて、味付けしただけ。」
「いや、野菜も切ってるじゃん。」

彼が付け合わせのキャベツの千切りと、トマトを指さす。

「じゃあ、切って、焼いて、味付けしただけ。」
「それでも、すごいな。俺、料理全く出来ないもん。」

本当は、出汁を取って、具を煮て、味噌を溶いただけの味噌汁もあるのだが、面倒くさいので言うのをを割愛した。
作った夕食をテーブルに並べる。

彼は、俺がしたくてしていることだからと、かたくなに家賃や光熱費を受け取ろうとしなかった。
それでは肩身が狭かった私は、ごくごく自然に食事を作るようになった。
元々、母が不在がちだったため、子供の頃からほとんどの家事は出来た。
どうせ一人分が二人分になっても、料理を作る手間に大差はない。

「うまい。」
「そりゃ、よかった。」

おかずを頬張りながら、笑う彼は子供みたいで。
私は思わず微笑み返してしまうのを必死に抑えていた。

こうしていると、つい忘れてしまいそうになる。
私と彼とは、ただの会社の先輩後輩で、同居人であるということを。
彼から告げられた好意に、私は応えるつもりがないということを。

「毎日うまい飯にありつけて、幸せだ。」

彼が、そう呟いて愛おしい恋人に向けるみたいに、こちらを優しく見つめている。

その彼の眼差しを、私は受け取る資格なんて、ないのだ。
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