うそつきハムスターの恋人
夏生が置いていった傘とスコーンが視界の片隅から消えない。
朝に突き返したスコーンはひとつだった。
また買いに行ったのだろうか。
もしかして、お詫びのつもりで?

傘も持たずに、どうやってお店まで行くんだろう。
誰か女の子が迎えに来てくれたりするのかな。
だって、夏生は人気者だもの。

ディスプレイの数字が知らず知らずのうちにぼやけて、慌てて目をこすった。

これは悔し涙だ。
だって私には悲しむ理由なんてない。
傘のことも、スコーンのことも、コンパのことも。
私は悲しんでなんかいない。

頭を空っぽにして、ただひたすらデータの打ち直しをした。
すべてやり終えて時計に目をやるともう十時だ。

「……帰ろっと」

つぶやきながら、自分の部屋に帰りたいと心底思った。

築二十年のボロアパート。
置いてきた幸福の木や冷蔵庫の中のプリン、本棚のファッション雑誌、水玉模様のレースのカーテンや薄いピンクのビーズクッションを思い浮かべた。

私の帰る家はあそこのはずなのに。
夏生の家は、私の帰るところじゃないのに。

夏生はどうせ今頃コンパに行ってる。
彼女がいるのにコンパに来ていることをどう説明するのか知らないけど、彼女がいることを知っていて誘う方も誘う方だ。
私だったら絶対そんなことしない。

パソコンの電源を切ってから、喜多さんのデスクに置きっぱなしだったスコーンの入った紙袋をバッグの中に入れた。
夏生の傘を持ち、部署を出ようとしたとき、外からバタンとドアが開いた。

「おっせーよ」

そこにいたのは夏生だった。
不機嫌そうに腕組みをして開いたドアにもたれている。

「……コンパ、は?」

「かわいい子いなかったから途中で帰ってやった」

「なにそれ、ひどい」

うそばっかり。
だって、スーツが全然濡れてない。
外はあんなにも雨が降っているのに。

「早く帰るぞ。俺、まじで餓死しそう」

「あ、じゃあスコーン食べる?」

さっきバッグに入れたスコーンを取り出して夏生に手渡そうとしたら、夏生はいいと首を振った。

「それはしずくのために買ったやつだから」

そんな風に、まっすぐに私を見つめるのはやめてほしい。

心がざわざわするから。

「帰ろ」

夏生は照れくさそうにぼそっと言ってから、エレベーターホールに向かった。

私はその背中を追う。

夜のオフィス。
雨の音。
ざわざわする、私の心。
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