うそつきハムスターの恋人
「お疲れさまでした」

二課の社員が次々に退社していく中、私はバッグの中を引っかき回して、ため息をついていた。

今朝、服装に合わせてバッグを変えた時に、合鍵を入れ忘れてきたようだ。
バッグを変えるとこういうことがよくあるからと思って、ちゃんと入れたつもりだったのに、入っていたのは自宅のアパートの鍵だった。

会議だから遅くなる、と夏生が言っていたことを思い出す。
鍵を貸してもらわないと、夏生が帰ってくるまで家に入れない。

シンプルかつ機能的な、デスクの時計に目をやる。
会議は八時からだと言っていたし、今ならまだ部署にいるかもしれない。

私は「お疲れさまでした」と残っている社員に声をかけると、バッグを持って立ち上がる。

「大澤さん、また明日ね」

パソコンを操作しながら、加地くんが片手を上げた。

加地くんに小さく手を振ってから、二課を出て階段で十一階の運営部に向かう。
階段を上り終えると、エレベーターホールの前にあるカフェスペースから夏生の笑い声が聞こえた。
コーヒーの自販機と、お洒落なバーにあるような丸く小さなハイテーブルが三脚置いてあり、社員がタバコを吸ったり、コーヒーを飲んだりして、休憩できるようになっている場所だ。

よかった、ここにいて。
鍵を借りるためだけに他部署内に入るのは勇気がいるから。

そう思って一歩足を踏み出すと、今度は女の人の笑い声が聞こえた。
ふふっという感じの忍び笑い。
そっと覗くと、こちらに背を向けた夏生と女の人がひとつのハイテーブルで向かい合って話している。
他のテーブルには誰もいない。

とてもきれいな人だった。
ゆるやかなウェーブのロングヘアーにふんわりとかかる前髪。
その前髪をかきあげる仕草がとても色っぽかった。

「会議なんてすぐ終わるくせに。嘘つきだなぁ、夏生くんは」

夏生がなにか言うと、女の人は笑いながら夏生の肩に触れる。
テーブルが小さいせいで、ふたりの距離はとても近く、それはそのままふたりの親密さを表しているように見えた。

会議なんて、すぐ終わるくせに?
なんのこと?
今日の会議のことだろうか。

「夏生くんって、ほんとひどい男だね。そう言って何人も女の子を泣かしてきたんでしょ?」

女の人はそう言いながら、今度は夏生のネクタイの大剣に触れた。
ネクタイが女の人の手の中でひらひらと揺らめいた。

それは私が締めたネクタイなのに。
私とお揃いの。

「結び目、ちょっと変だよ。直してあげる」

女の人の手が、夏生の首元に伸びる。

やめて!

見ていられなかった。
苦しくて。

夏生に触らないで!

思わず叫びそうになり、慌てて口元を両手で覆う。
気が付くと、後ずさりしていた。
ふたりが見えなくなると、また女の人の笑い声が聞こえた。
秘密めいた、妖艶な笑い声だった。

私は階段に向かって走り出した。

やめて。
触らないで。

お願い。
夏生に触らないで。

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