うそつきハムスターの恋人
沈んだ気持ちのまま、十一階に着いた私は運営部の前で深呼吸を繰り返した。

運営部のドアはガラスになっているから、中の様子は廊下からでも見える。
穏やかな課長のおかげで、のんびりとした雰囲気の二課とは違って、みんなとても忙しそうだし、きびきびと立ち回る姿はいかにも先鋭たちという感じがして入りにくい。

夏生に電話しようかな。

「あ、もしかして……大澤さん、かな?」

バッグの中のスマホを取り出そうと、下を向いていた私が顔を上げると、運営部から夏生と同じ年くらいの男性社員が顔を覗かせている。
おしゃれな黒縁眼鏡をかけた、背の高い人だ。

「あ、はい!」

慌てて返事をすると、その拍子に手にしていたスマホを落としてしまった。

「うわっ」

その人は、カツンと硬い音を立てて廊下に落ちた私のスマホを拾い上げて「はい、どうぞ」と手渡してくれた。

「水嶋ね、今少し部長と話をしてるんだ。君が来たら、きっとドアのところでもじもじするだろうから、カフェスペースで待つように言ってくれって頼まれてたんだよ」

「す、すみません。ありがとうございました」

ペコリとおじきをして、前に夏生が女の人といたカフェスペースに向かおうとすると、男性社員が「俺も休憩しよっと」と言って着いてきた。

「すぐ終わると思うんだけどね、部長の話」

男性社員はそう言って、自販機のボタンを押すと、手の中で小銭をちゃりんと鳴らしながら振り向いた。

「大澤さんはなに飲む?」

「えっ!? あ、私はあの、結構です、ありがとうございます」

首をぶんぶん横に振りながら答えると、その人はくすっと笑った。

「ほんと、ハムスターみたいだね」

「え?」

「水嶋が言ってた。俺の彼女、ハムスターみたいなんだよねって」

俺の彼女。
頬の内側を軽く噛んでうつむいた。
そうしないと頬が緩んでしまうから。

「あっ、違う違う! ハムスターっていい意味で言ってるんだと思うよ? ハムスターみたいでかわいいっていう意味だと思う」

うつむいた私を見て、落ち込んだと思ったのか、その人は慌てたように早口で言った。

「俺も子どもの頃、ハムスター飼ってたんだよね、ジャンガリアンっていう種類の灰色のちいさいやつ。黒い真ん丸の目で見上げられるとかわいくて、ついお菓子とかあげたくなってさ。それがなんと一ヶ月で死んじゃったんだけど、手のひらに乗せて背中をなでたら……」

「なんの話してんの?」

あきれたような声がして、顔を上げると夏生がビジネスバッグを斜め掛けにして立っていた。
私はほっとして夏生に近づく。

「なにって。ハムスターの話じゃん。ね?」

男性社員に笑いながら同意を求められて、私もうなづく。

「ま、いいや。宮下、サンキューな。お疲れ」

「おう、お疲れぇ」

宮下、と呼ばれた男性社員は夏生と私ににっこり笑って手を振ってくれた。

私は宮下さんにペコリとしてから、夏生の後を追った。

宮下さんのハムスターは一ヶ月で死んでしまった。
私と同じだ。
夏生にとって私は、一ヶ月だけ可愛がってもらえた宮下さんのハムスターと同じなんだ。

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