うそつきハムスターの恋人
夏生が向かったのは、駅前のビルに入っている小料理屋だった。
白い調理衣を着た、若い板前さんが、カウンター席の向こうで出迎えてくれる。
そのカウンター席の奥にある小上がりで、宮下さんはビールを飲んで待っていた。

「おまたせ」

夏生が声を掛けると、こちらに背中を向けて座っていた宮下さんが、振り向いて手を振る。

小上がりは四人掛けのテーブルが三つあり、他の席もサラリーマンらしき男性客でうまっていた。

「お! しずくちゃん! 急に呼び出してごめんね」

靴を脱ぎながら、私はぺこりとお辞儀をした。

「しずくちゃんとか、お前なれなれしいな」

掘りごたつ式になっているテーブルの、壁側の席に座りながら、夏生が言う。
でもその声には笑いが込められていて、夏生が本気で怒っているわけではないことがわかる。
夏生に促されて、私は夏生の隣に座った。
斜め前で宮下さんが笑っている。

「いいじゃん。俺たち、友だちなんだよ」

「いつからだよ?」

夏生が笑いながら顔をしかめるという、器用な顔をしているのを見ながら、この二人の会話はまるで同僚というより大学生同士の会話みたいだな、と思っていた。

だから、乾杯をした後に、宮下さんが「俺、こいつとは大学のときからの友だちなんだよね」と言ったのには本当に驚いた。

「水嶋がさ、『一緒にメイズに就職しよう』って言うからしぶしぶ……」

「お前がついてきたんだろうが」

夏生は笑いながら、割り箸を手にしてテーブルの上に並んだお刺身の盛り合わせにお箸を伸ばした。
左手で……。

「……えっ?夏生、お箸! 左手!? えっ、なんで?」

夏生は左手に持ったお箸でお刺身をつまんでぱくっと食べると「あ、やっと気づいた?」と言った。

「左利き……だったの?」

「そうだよ」

全然、悪びれていない顔だ。

「うそだぁ」

ずっと、骨折したのは利き腕だと思い込んでいた。
だから、ものすごく不便だろうと、食事の時はありとあらゆる工夫をしていたのに。

「俺、利き腕を骨折したなんて一回も言ってないぞ」

そういえばそうかもしれない。
右腕と聞いて、利き腕だと私が思い込んでいただけだ。
夏生が『利き腕だ』と言ったことは一度もなかったような気がする。

「ほんとに気づいてなかったんだ。だから、毎日スプーンとかフォーク出してくれてたのか。 俺、箸使えるのになーってずっと思ってたんだよな 」

夏生はなるほどな、という顔でうなずいた。

「え? 今知ったの? しずくちゃん」

それまで黙って見ていた宮下さんが「しずくちゃん、おもしれぇ」と笑った。


< 62 / 110 >

この作品をシェア

pagetop