うそつきハムスターの恋人
「あ、しずくちゃん、ビールお代わりする?」

私のジョッキを見て、そう聞いてくれた宮下さんに、私はほとんど機械的に「はい」と返事をしていた。

「すんませーん」

振り向いて店員さんを呼ぶ宮下さんの背中に「ちょっとすみません」と小さな声で言ってから立ち上がり、化粧室に向かう。

小上がりの下駄箱の裏側にある、ひとつしかない化粧室に入って、鍵を閉めた瞬間、涙があとからあとから出てきてとまらくなった。

『起きて待っていたらかわいそうだから』

夏生がもし、会議は早く終わると言っていたら、私はきっと起きて待っていた。
イレギュラーなことが起きて、夏生の帰りが遅くなっても、きっとご飯を食べずに待っていた。

それをわかっていたからこそ、『会議で遅くなるから、先に寝てろよ』と言ったのだろう。

夏生がついた嘘は優しい嘘だった。

それなのに、私は……。

コンコン、と小さなノックの音がして、私は我に返った。
この化粧室をいつまでも占拠しているわけにはいかない。
ペーパータオルで涙を拭いてから、鏡を見てみる。
鼻が赤いのは仕方ない。

「……すみません」

そっとドアを開けると、目の前に夏生がいた。
下駄箱と化粧室の間の狭いスペースで私たちは向き合う。
カウンター席からも、小上がりからも死角になっているこの場所は、とても静かで少しひんやりとしている。

「……なんか、ごめん。あいつ、俺たちが本当に付き合ってると思ってるから」

夏生は私から目をそらして、照れくさそうに小さな声で謝る。

「……もう帰りたくなった? 帰ろうか?」

夏生は心配そうに私の顔を覗き込んだ。

本当に。
この人はバカだ。

あの日も今も。
夏生はなにも悪くないのに謝ったりして。

こんな偽者の彼女なのに、こんなにも大事にしてくれちゃって。

こんなハムスターみたいな女なのに、本気で照れちゃって。

「……しずく?」

優しい声で呼んでくれたりして。

「夏生」

うん?と夏生は私を見て、微笑む。

「ごめんね」

「なにが?」

「……いろいろ」

「なんでしずくが謝るんだよ? なんか……鼻、赤い。もしかして酔ってる?」

夏生が人差し指の背で、私の鼻の頭をかるくこする。

「大丈夫だよ」

まだまだ飲める、といいかけたとき、「ああーっ」と宮下さんの声がした。

「遅いと思って見に来たら、こんなとこでいちゃつきやがって!」

宮下さんはまるで小学生みたいに私たちを指差して「見たぞ見たぞ」と冷やかした。

「明日、運営部で言いふらしてやるからな」

「好きにしろよ」

夏生はあきれたように笑いながら、宮下さんの脇を抜けて小上がりに戻った。

「言っていいんだって」

宮下さんは声をひそめて私に言うと、にししと笑った。


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