うそつきハムスターの恋人
夏生がエレベーターから降りてきたのは、待ち合わせの時間を五分ほど過ぎた時だった。

私が声をかけるより一瞬早く、私に気がついた夏生は私に近づくと「ごめん」とひと言小さな声で謝った。

話しかけることさえためらうほど、夏生の表情は固く、顔色は真っ青だった。

「行こうか」

ぼそっとつぶやくように言って、歩き出した夏生の背中を追いかけながら、一体どうしちゃったのだろう、と思う。
朝はとても元気だったのに。

病院に向かうタクシーの中でも夏生は無言だった。
無言だったばかりか、窓の外をじっとみたまま、私と目をあわさないようにしているみたいだ。

「……どうしたの? 大丈夫?」

そっと話しかけても、夏生は窓の外を見たまま「うん」と答えるだけ。

夏生の後頭部を見ながら、昼に加地くんや喜多さんと話した内容を思い出す。

『電動のこぎりって……怖すぎる』
『ガガガガガ、みたいなすっごいでかい音がする』

もしかしたら、怖いのかもしれない。
ギブスカッターでギブスを切られる瞬間が。

そう思って、励ますように夏生の左手をそっと握った。

それでも、夏生は窓の外を黙って見ているだけだった。
夏生の手はとても冷たかった。

整形外科外来は相変わらず、ギブスをしたり松葉杖をした人であふれかえっている。

私は夏生の左手を握ったまま、診察室の前の固いソファに座っていた。
ふたりとも、お行儀のいいこどもみたいに、まっすぐ前を見て口を閉ざしていた。

いよいよだと思う。

ギブスが外れたら、ちゃんと私の気持ちを伝えよう。
その瞬間が近づいてきているかと思うと、ドキドキしてうまく呼吸ができなかった。

「水嶋夏生さん。診察室にお入りください」

夏生が立ち上がる。
私も立ち上がろうとしたら、夏生が「いいよ」と囁くように言った。

「ひとりで行って来る」

え? と私は中途半端な姿勢のまま聞き返す。

「ひとりで大丈夫?」

「大丈夫」

夏生はそのまま、看護師さんに着いて診察室に入っていく。

ひとりで行ってしまった。
夏生は大丈夫だろうか。

私は、すとんとソファに座り、音も立てずに閉まったドアをじっと見つめた。

次にこのドアから出てきた時、夏生のギブスは、ない。




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