うそつきハムスターの恋人
結局、何も言えないまま、マンションについてしまった。
リビングに入ると、夏生はコートとスーツを脱いで椅子の背もたれにかける。

リビングはしんと静かで、寒々としている。
冷蔵庫がぶぅん、と小さな音を出した。

「しずく」

夏生が静かな声で私の名前を呼んだ。

「ギブスが外れたら一番にしたいこと、見つかったよ」

そう言うと、夏生は目を伏せてそっと微笑んだ。
なんだかとてもさみしい顔をしていると思った。

夏生が顔を上げて、一歩ずつ私に近づく。
ふわり、と消毒液の香りがしたと思ったら、夏生に抱きしめられていた。

「これは両手じゃないと、できないことだから」

夏生の声はかすれていた。

私の背中にまわされた夏生の両腕。
夏生の心臓の音。
ホワイトムスクの香りに混じって病院の匂いがする。

まだ力が入らないのか、右腕はそっと添えているだけだったけど、左腕にはぎゅっと力がこもっているのがわかる。
夏生は私の首筋に顔をうずめた。

「しずく」

耳元で名前を呼ばれると、くすぐったくて、恥ずかしくて、耳が熱くなるのが自分でもわかった。

私は目を閉じて息を吸った。
気持ちを伝えるのは今しかない。

「今までありがとう。もう大丈夫だから」

ほんのわずかの差だった。
私が口を開くほんの少し前に、小さな声で夏生が言った。

心臓が、どくんといやな音を立てて脈打つ。

だって、それってなんだか。

『さよなら』みたい。

「全部、終わったよ。しずくはもう自由だから。恋人のふりももうしなくていいから。これで全部おしまい」

『これで全部おしまい』

温かな胸の中で聞くには、あまりにも悲しすぎる『さよなら』だった。

「もうしずくがここにいる理由はないから。本当に今までありがとう」

私は黙ってうなづいた。
夏生の胸の中で。

うなづく以外になにができるだろう。

泣くのは、自分の部屋に帰ってからだ。

夏生はしばらく黙って私の体を抱き締めていた。

「送るよ」

最後の最後まで、夏生は優しくて。
ずるい人だと思った。

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