才川夫妻の恋愛事情
後日談3・才川夫妻の名前呼び
大学を卒業すると同時に夫婦になった。そのまますぐに一緒に就職した。最初から他人のフリをしていたから、「才川くん」と呼ぶ癖は抜けなくて。だってうっかり会社で名前で呼んでしまっても困るし。

それでも時々彼が、すごく呼んでほしそうにするから。 いつかは応えなくちゃ、と思っている。



洗濯物を畳んでいるときだった。ふと、名前呼びのことを思い出して、彼が家にいないのをいいことにつぶやいてみた。



「…………千秋」



ほとんど呼んだことのない名前の響きが、リビングで不自然に浮く。

才川千秋。

東水広告社の会社説明会で、最初に名前を教えてくれたときの彼の顔を思い出しながら。 あれからもう随分時間が経った。



「千秋。……千秋。うーん……」



呼び捨てはやっぱりちょっとハードルが高いような。 でも「千秋くん」でも十分恥ずかしい……とひとり悶々としながら手元では洗濯物を畳み続けていると、ちょうど彼のYシャツの番がまわってきた。



「……」



彼はたぶん、まだ帰ってこない。壁掛け時計の時間を確認してから、私は手に持っていたYシャツをぎゅっと抱きしめる。

洗濯して干したあとだけど、シャツからは染みついて馴染んでいる柔らかな匂いがした。彼の匂いだ。体臭? どうなんだろう。彼の首に腕をまわしたときに感じる首筋の匂いがする。



(……好きな匂い)



良い匂いだから好きだと感じるのか。才川くんの匂いだから好きだと感じるのか。

たぶん後者だなぁと思いながらすーっと呼吸をする。あぁこんなところ見つかってしまったら、申し開きのしようがない……。絶対にまた「ヘンタイ」って言われる……。

わかっているのに、この香りだけでドキドキしてしまう。

好き。はやく帰ってこないかなぁ。

気持ちが溢れ出すみたいに彼の名前をつぶやいていた。





「…………千秋くん」





ガタッ、と後ろで何かが何かにぶつかる音がして。



「……」

「……」



振り返るとそれが、才川くんが壁に肘をぶつけた音だとわかった。痛そうに肘をさすりながら、ちょっと驚いた目で私のことを見ている。――あぁ。



死にたい……!



「う、えっと……」

「……」



いつの間に帰ってきたのか、状況的に今Yシャツを抱きしめ嗅ぎながら名前を呼んでいた場面はばっちり見られていたに違いない。これはもう!絶対に!「ヘンタイ」って罵られるパターンです見えた……!

そう思ってバッと俯き、近寄ってくる彼の意地悪な言葉にそなえようとした。



だけど。



「……えっ」

「ただいま」



ふわっと頭に触れる優しい手のひらの感触。降ってきたやわらかい「ただいま」の声。

彼は、床にへたりこんで座る私の頭を一瞬だけ優しく撫でると、そのままクローゼットの方まで歩いていった。私は後姿を目で追う。ネクタイをはずしている。



(……死ぬ)



そんな嬉しそうな反応されると死んじゃう。





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