才川夫妻の恋愛事情





「むりむりむりむりむり!」



異動があった日。彼が家に帰ってくるなり私は玄関で詰め寄りました。



「こら。何よりも先にお帰りなさいだろ」

「才川くんお帰りなさい! 無理です!」

「ただいま。何が無理?」



この会話の流れで自然とスーツのジャケットを受け取ってしまう自分も自分だと思うし、渡す才川くんも才川くんだと思う。私は受け取ったジャケットをハンガーにかけながら、マイペースにゆるゆるとネクタイをはずす才川くんの背中に向かって言った。



「隣の席なんて無理! しかも補佐担当なんてっ……」

「なんで? 俺わりと指示的確だと思うけど」

「そういうことじゃなくて! 毎日あの距離で話すなんて、他人のフリしきれるわけがない……」



今日一日だけでもうどっと疲れていた。会社で夫が隣にいる緊張感は尋常じゃない。見られているわけじゃないとわかっていても意識してしまうし、隣でキーボードを打つ音や伸びをする気配だけでびくっと反応してしまう。初めて一緒の課になった松原さんにも、ランチの時に「異動して緊張してるの?」と笑われてしまった。

それなのに才川くんは。



「別に今まで通りにしてればいい」



そう言ってYシャツのボタンをはずしながら脱衣所へ足を向けてしまう。「先にお風呂?」と訊くと「うん」と答える。「一緒に入る?」と訊くと「入らない」と答える。いつかうっかり「うん」って言わないかなーなんて思っているけれど、なかなか言わない。



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