いとしい傷痕
なんとか対岸に渡り終えて、私は足を止めた。


ばくばくばくと耳の奥で心臓が暴れている。

やけに息苦しいと思ったら、浅い呼吸を激しく繰り返していることに気がついた。


胸に手を当てて深く空気を吸い込む。

呼吸は楽になったけれど、くらくらと眩暈がして、私は近くの段差に座り込んだ。


目を閉じると、瞼の裏に思い浮かぶ、ついさっき見た光景。


周りの目も気にせずに熱い口づけを交わしていたリヒト。

去り際のリヒトの顔。


分かってやっていたんだ、と私は思った。


リヒトは私が見ているのを分かっていて、彼女とキスをしたのだ。

私に見せつけるために。


目を見開く。

行き交う人々や車。


風が吹いて、視界に髪が踊った。


光を浴びて金色に近いほどに透ける、茶色い髪。

思わず右手でつかんだ。


彼女の髪を思い出す。

つやつやと光沢があって真っ黒で、流れるように真っ直ぐで、綺麗な髪だった。

こんな、色褪せてぱさついて、すぐにうねってしまう癖毛とは全然違う、すごく綺麗な髪だった。


その髪筋にリヒトの長い指が絡んでいた様子を思い出して、また動悸が激しくなった。


この気持ちはなんだろう、とぼんやり考えて、『ショック』という言葉が浮かんだ。


そうだ。私はショックを受けている。


何に? ――リヒトが他の女とキスをしていたことに。


髪をつかんでいる指が震えていた。

唇を噛む。


頭の片隅に、冷静で理性的な自分がいて、『ショックを受ける筋合いじゃない』と私に語りかけてきた。


そうだ。リヒトは私の叔父だ。

年が近くて、幼い頃から一緒に育った、兄のような存在だ。


だから、リヒトが誰とどんな付き合いをしていようと、私が怒ったり悲しんだりするのはおかしい。


それでも、もう一人の自分が、ショックに泣き叫んでいた。


『リヒト、どうして私以外の女に優しくするの?』と、怒り狂っていた。



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