主任は私を逃がさない

 彼がそっと唇を離し、私達は無言で見つめ合う。

 胸が暴れるように激しく上下して、心臓が今にも飛び出しそう。

 史郎くんは少し息を乱して、熱に浮かされたように濡れた目をしていた。


 いつも彼が職場で見せる、主任らしい凛とした顔。

 幼なじみのお兄さんとしての、優しい顔。

 怒った顔。笑った顔。私をからかう時の色っぽい顔。

 そのどれにも当てはまらない、彼が初めて見せる表情が目の前にある。

 切なくて、どこか苦し気で、まるで大切な壊れ物を一心に見つめるような男の顔に、私の心は釘付けにされてしまった。


「陽菜……」


 掠れた声で私の名を囁き、史郎くんは再び顔を寄せてきた。

 ゆっくりと、戸惑うように、ためらうように、少しずつふたりの距離が縮まっていく。

 その間私は何も考えられず、近づいてくる彼の唇を瞬きもせず見つめていた。

 ズキズキするほど顔に血がのぼって、額はうっすらと汗ばんで、彼の熱い息が私の唇をくすぐって。

 そして、唇を覆われる瞬間。

 私は自分から目を閉じた……。

< 78 / 142 >

この作品をシェア

pagetop