主任は私を逃がさない

 史郎くんが一瞬、怯んだ。

 私は夢中で身を屈めて片足のパンプスを脱ぎ、それを手に取って武器にする。

 鋭いヒールを史郎くんに向けて遮二無二殴りかかった。


「うわ、危な……! こ、こら陽菜、よせ!」


 史郎くんがとっさに私の手首を離す。

 私は素早くもう片方のパンプスも脱いで手に持って、脱兎のごとくその場から駆け出した。


「陽菜、待て!」

「嫌! 来ないで!」

「聞けよ! 俺はずっとお前のこと……」

「うるさいうるさい! 史郎くんなんか大嫌い!」


 なりふり構わず絶叫しながら裸足で逃げる私の背中に、史郎くんの悲痛な声が追いかけてくる。


「なんで……なんで伝わらないんだよ!?」


 薄暗い路地を全力疾走する私の耳に彼の言葉は留まらず、風のように通り抜けていく。

 息を切らして走り続けながら、『ばか! ばか!』と心の中で何度も罵倒を繰り返していた。

 胸全体が息苦しいほど痛むのは、走っているからばかりじゃない。

 ワナワナと震える唇からは情けない泣き声が漏れた。


 誰が……バカだと言うのか。

 勝負を忘れて、勝手に浮かれて、のめり込んだ私が?

 それとも好きでもない女の子相手に、平気であんなことができてしまう史郎くんが?

 好きでもない……女の子に……。

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