こい-みず 【恋水】(ぎじプリ)
「紫さんとは不思議なご縁でしたね。10年前、ここに一緒に配属されて。」
「…わたし、」
「光陰矢の如し、ですよ。」
どうして涙が出てくるんだろう。
わたし、変だ。
この気持ちは、一体なに?
最初は、広岡さんのこと苦手だった。
頭でっかちでとっつきにくくて…何かにつけて説教くさい事ばかり言うし。博学な割に、流行には滅法弱くて「おっさん使えねぇな」なんて口汚く罵ったことさえある。
だけど、こんなに突然。
もう会えなくなるなんて。
知っては、いた。
広岡さんの会社からは定期的に出向があって、そのサイクルが10年程度だって。もうそろそろ次の人が来る時期だって。
わかってはいた、けれど。
「…こんなおじさんの為に、泣いてくれるんですか。」
そっと、涙をハンカチで拭ってくれる。
節がくっきりと浮くその手すら、愛おしくなってしまう。…この気持ちを、何て表現すれば良いんだろう。
広岡さんは、いつだって優しかった。
憧れだけでアナウンサー職に就いてしまった私は、入社当時ほんとうにおバカで。政治も経済も、スポーツさえも、渡される原稿に何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。
ニュースルームには記者さんを始め沢山の知識人がいたけど、いつだって私が本当に困ったときに助けてくれたのはこの人だった。年輩の解説員でさえ、広岡さんを頼りにしていたくらいだ。
いつも、付かず離れずの距離で。「年の功ですよ」なんて、少し照れ臭そうにしながら、いろんな事を丁寧に教えてくれた。
入社して10年。若手アナの台頭も目覚ましい中、まだ私が現役でいられるのは広岡さんのお陰だ。
その、広岡さんが。
ここから、いなくなる、なんて。
離れたくない。
嫌だ。
離れられない。