七色の空
チャプター88
「はッぴぃエンド」
〜つづき1

本来なら、この時期、泣きじゃくる赤ん坊(=福生)の口元には母親の乳房があるはずである。しかし、湖畔に優雅にたたずむ病院の入口では、その泣き声は空気を震動させ、哀しい波を湖に伝えるだけである。福生は病院に引き取られたあと、泣くのを辞めた。
よく子供の泣き声にヒステリーを起こす母親の姿を目にするが、子供にとって泣くことは唯一の表現手段であり、言葉である。それに対して怒りを感じる母親というのは無知であり、愚かだ。子供を産むまでに必要とされる学習が著しく欠けている。
福生は乳児期に唯一の表現手段を放棄した。既に乳児期の時点から、福生は潜在的に自己を見つめ始めたのである。それは、悲しいことだ。
人は自分が何者か、本当の意味で解ってしまった時、勝者でいられる可能性は極めて低い。この時から、福生は自分が勝者になるべく、地道で惨めな人生を駆け上がり始める。
障害を持たない物語中の福生は様々なことで他人より優位に描かれる。運動神経は抜群、頭脳明晰、女にもモテル。しかし、他人に怒りを感じ、他人を見下し、心を開かない。しかし、女にはモテル。
福生の憧れた人間像は所詮、稚拙で世界が狭い。
福生は物語を描くことでこれまで成長をしてきた。友達はいなかったし、人との関わりも、福生自ら進んで避けてきた。
福生がこれまで頼りにしてきたモノは書物や映画である。生の人間から学びとることは、およそ無いに等しかった。おそらく、福生は人間に人一倍興味を持ってはいたが、書物や映画の中に存在する間接的な人間にしか寄り添うことができなかったのだろう。
福生が映画に傾倒してゆく大きなきっかけとなった映画の中で、こんなことが語られていた。

「僕と君は毎日を過ごす中で きっと知らず知らず 擦り切れる程すれちがっている…

 今 温もりを感じている こんなにも誰かと体を近付けたのは もうどれくらい昔の事だろう
こんな風に温もりを感じたのは もうどれくらい前の事だろう…」
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