惑わす誘惑。
「...久しぶりだな」
そう言って、私が踏み出すことの無かった扉の前に彼は背を預け立っていた。
私は"ダメだ"と自身に言い聞かせ、通り過ぎようとした。
けれど、彼の前を通りすぎる時、彼へと誘われ私は彼の香りに包まれた場所にいた。
「..なぜ俺じゃなくて、あいつを選ぶ?」
そう不機嫌を微塵も隠さない低い声で問い掛けてくる彼。
「....もう、決めたことだから」
そう言って、強い視線を送る彼から目を背けた。
「...それは本心か?」
「...」
そんなことを言われては何も返せない。その代わりに私は小さく頷いて見せた。すると、彼は意地悪く鼻で笑うと、私の持っていたポーチへと目を向けた。
「...じゃあ、なんで"それ"をポーチの中に入れてるんだ?未練がましいぞ。」
そう言われて、私は熱くなるのがわかった。"それ"とは私がポーチの奥へと、仕舞っていたもの。
「....これは...」
また何も言えずにいる私に、彼が近付いてくる。
「楓はずっと、俺のこと考えてたんだろ」
そう言って、また一歩近付いてくる。
「...違う」
「本当は、ずっと俺のとこへ来たかった」
「...違うっ」
「...違くないだろ?」
そう言ってすべて見透かしたように笑う彼は、震えるほどの綺麗な声でそう言葉を紡ぐ。