夢が醒めなくて
義人氏は、私から滑り落ちた自分のジャケットを拾いながら言った。
「ここ、よくカワセミ飛んでるような気がする。……また来ようか。」

「はい!」
一気にテンションが上がった。

「気に入ったんやったら、よかった。ほな今日は帰ろうか。お母さんが、待ってはるわ。」
そう言われてキョロキョロした。
確かに、太陽はとっくに姿を消していた。
……まあ、すぐそばが愛宕山なので、日が沈むの早いんだけど。

「今、何時?バーベキューのお手伝い……」
「えーと17時。ボートも返さんと待ってはるわ。」

2時間ぐらいボートにいたの?
やっぱりけっこうしっかり寝てたのかもしれない。


「次は私に漕がせてくださいね。」
帰り道、義人氏にそうお願いした。

「せやな。次は漕ぎかた教えたるわ。スカリングとか覚えると便利やで。」
スカリング?

「ボートって後ろ向きに進むように漕ぐやん?でも、カヌーみたいに前や真横にも進めるねん。」
「……お兄さんって、何でもできるんね。」
ため息まじりにそう言った。

かっこよすぎる。
なんか、かなわない。

でも義人氏は、くしゃっと私の頭を撫でて言った。
「こっそり練習してるんや。希和もちょっと練習したらすぐできるわ。」
……こっそり?
もしかして、囲碁も!?
こっそり、どこかで練習してる!?

ずるーい!!!



翌日からの2日間は、お父さんが家族旅行に連れてくださった。
「ゴールデンウイークに、よくこんな部屋、とれましたね。」
有馬温泉のゴージャスな隠れ宿は、建物もサービスもお料理も温泉も最高ランクらしい……値段も。

「まあ、定宿だからな。……義人の。」
お父さんは失言を義人氏のせいにした。

私でもわかった。
このお宿にお父さんはお母さん以外の女性と来ていたのだ。

表情を失ったお母さんの手を、私は思わず握った。
お母さんは、一瞬目を伏せて、それから私にほほ笑みかけてくれた。
大丈夫よ、ありがとう……と、手に力が優しく加えられた。

義人氏は苦笑していたけれど何も言わなかった。
……そうか。
お父さんだけじゃなく、義人氏も実際に定宿にしているのかもしれない。
まったくこの父子は。


「ほな、希和、行こうか。」
お宿でお抹茶とツツジをあしらった生菓子をいただいたあと、義人氏が私を観光に連れて行ってくれた。
「あまり買い食いしちゃダメよ?」
お母さんにそう送り出されて
「金泉焼だけ~。」
と、義人氏は子供のように好いたらしい笑顔で言った。

「あら。金泉焼……私の分も買ってきて。お父さんは食べ飽きたでしょうから、いらないわね。」

お母さんのイケズをお父さんはお茶を飲みながら黙殺していた。
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