ギダの町
桜と朝弥
引っ越しが終わって三日目の朝は開放感と冒険心に溢れていた。
新しい部屋の匂いはまだ微かに残っている。
初日に徹底的に掃除が出来て良かった。荷物が少ない御陰だ。片付けは半日で全て済んでしまったし、お隣さんへの挨拶も時間に余裕を持って臨めた。
「最近は若い子がよく引っ越してくるから嬉しいわ」
右隣の家に住む可奈子さんは熱いお茶を煎れてくれながらそう話していた。
「四十歳の一人暮らしなんて良いものじゃなくてね。挨拶に来てくれて嬉しいわ。しっかりしているのね」
「いえ、そんな。どうぞよろしくお願いします」
「困った事があったら何でも相談してちょうだい。ああ、そうだ、お店の場所は分かる?」
可奈子さんは自分で作った地図を譲ってくれた。字が綺麗で見やすい。
「商店街は近くにあるの。南には林檎園があって素敵よ、行ってみると良いわ」
「林檎が有名なんですか?」
「若い方が趣味でやっているそうよ」
随分と手間暇のかかる娯楽だ、と思ったが言わなかった。
二日目は商店街の散策に乗り出した。
スーパー、パン屋、手芸店、金物屋。可奈子さんの地図を見ながら確認していく。
決して大きな商店街ではなかったが、間違いなくこの町の人に必要とされているのは分かった。買い物客が途絶えない上に、「近くまで来たから」と店員に声を掛けるだけで去っていく人も多い。社交の場として確立されているようだ。
「見ない顔だね」
声を掛けてきたのは時計屋の店主だった。入り口横にあるショーウィンドウを磨いていた。
「あ、昨日引っ越してきたばかりで」
「そうかい。ギダへようこそ」
髭が濃いせいか、第一印象は良くはなかった。
「きょろきょろしていたけど迷ったのかい」
「いえ。地図と違っていたものですから」
店主は私の地図を覗き込み、現在地を指でなぞった。
この場所は時計屋ではなく、花屋だと書かれている。
「ああ、花屋。少し前に無くなっちまったよ」
「そうでしたか」
部屋に飾る花があればと思ったのに残念だ。
「地図なんか持ってても駄目だ、入れ替わり激しいから。家具屋もパチンコも今じゃ看板も無いよ」
店主は地図の二ヶ所を指さした。
「ここも花屋の次は本屋になって、それで今は時計屋だから」
「大変なんですね。客足は多そうなのに」
「仕方ない事だわな」
店主は溜息を吐き、店の中へ戻って行った。
スーパーで食料品を買い込み、少し遠回りをして帰宅した。
そして今日、三日目の出掛け先は南に決めていた。可奈子さんが教えてくれた林檎園。商店街の店のように無くなっていない事を祈りながら、お弁当におにぎりを作る。
意味がないと言われてしまった地図もしっかり鞄に入れた。
林檎園へは一本道。南へ進むほどに民家は少なくなり、田畑が広がり始めた。
土の香り。さらさらと風が葉を揺らす音。数十分離れただけで風景はがらりと変わった。田舎と呼べる程ではなく、遠目にはアパートや飲食店の看板も見えるが、喧噪はない。
「引っ越してきたのって、あんた?」
林檎園の入り口で、ツナギを着た青年が汗を拭いていた。
足下には林檎の沢山入った箱がある。
「美味しそう」
「どうも。これは出荷用」
「出荷?」
「どうしても売ってくれって客が居るんだ。パン屋なんだけど。俺もそこのパンは好きだから特別に」
「私もぜひ食べてみたいのですけど」
「お好きにどうぞ。中に朝弥が居るから、そいつに言えば良い」
「あさやさん?」
「俺はこれ運ばなきゃいけないから」
出荷用の箱を足で示す。
「お嬢さん、お名前は?」
「桜です」
「俺は圭介。またな」
圭介さんは重そうな箱を軽々と持ち上げ、鼻歌を歌いながら、町の方へ歩いて行った。
「車は無いのかな。使えば楽なのに」
「免許を持ってないみたいだよ」
「え?」
独り言のつもりだったのに、答えが返ってきたものだから驚いた。
いつの間にか、男の子が居た。林檎園の中、木の影に揺られながら、こちらへ微笑んでいる。
「話し声が聞こえたから、気になって来たんだ。驚かせたならごめん」
「いえ。あの、朝弥さん、でしょうか」
彼は頷いた。
私の名前は聞こえていたようで、「桜さん。よろしく」と言ってくれた。優しい表情ばかりで安心する。
「僕も引っ越してきたばかりなんだ。四日くらい前かな」
「そうなんですか?林檎園で働いてる方かと」
「今日は遊びに来ただけなんだけど、せっかくだから林檎持って行けって言ってくれて。圭介とは引っ越し初日に仲良くなって、良くしてくれるんだ」
朝弥さんに招かれ、林檎園へ足を踏み入れた。
趣味でやっているとは思えない規模だ。
「大きくしすぎたって後悔してるんだってさ」
「大変そうですもんね」
「敬語じゃなくて良いよ。年近そうだし、呼び捨てで」
「……うん」
男の子を呼び捨てだなんて気恥ずかしい。
朝弥と居ると緊張してしまう。心臓がうるさい。今すぐこの場から逃げ出して、布団を頭から被ってしまいたくなった。
初対面なのに。これが一目惚れというものかしら。こんな突然に来るものだなんて思ってもいなかった。
けれど恋なんかして良いのだろうか。いけないのではないか。胸騒ぎが止まらない。
誰にも言えない。会話の内容も選ばなきゃ。気付かれたくない。
名前以外の記憶が無い、だなんて。
新しい部屋の匂いはまだ微かに残っている。
初日に徹底的に掃除が出来て良かった。荷物が少ない御陰だ。片付けは半日で全て済んでしまったし、お隣さんへの挨拶も時間に余裕を持って臨めた。
「最近は若い子がよく引っ越してくるから嬉しいわ」
右隣の家に住む可奈子さんは熱いお茶を煎れてくれながらそう話していた。
「四十歳の一人暮らしなんて良いものじゃなくてね。挨拶に来てくれて嬉しいわ。しっかりしているのね」
「いえ、そんな。どうぞよろしくお願いします」
「困った事があったら何でも相談してちょうだい。ああ、そうだ、お店の場所は分かる?」
可奈子さんは自分で作った地図を譲ってくれた。字が綺麗で見やすい。
「商店街は近くにあるの。南には林檎園があって素敵よ、行ってみると良いわ」
「林檎が有名なんですか?」
「若い方が趣味でやっているそうよ」
随分と手間暇のかかる娯楽だ、と思ったが言わなかった。
二日目は商店街の散策に乗り出した。
スーパー、パン屋、手芸店、金物屋。可奈子さんの地図を見ながら確認していく。
決して大きな商店街ではなかったが、間違いなくこの町の人に必要とされているのは分かった。買い物客が途絶えない上に、「近くまで来たから」と店員に声を掛けるだけで去っていく人も多い。社交の場として確立されているようだ。
「見ない顔だね」
声を掛けてきたのは時計屋の店主だった。入り口横にあるショーウィンドウを磨いていた。
「あ、昨日引っ越してきたばかりで」
「そうかい。ギダへようこそ」
髭が濃いせいか、第一印象は良くはなかった。
「きょろきょろしていたけど迷ったのかい」
「いえ。地図と違っていたものですから」
店主は私の地図を覗き込み、現在地を指でなぞった。
この場所は時計屋ではなく、花屋だと書かれている。
「ああ、花屋。少し前に無くなっちまったよ」
「そうでしたか」
部屋に飾る花があればと思ったのに残念だ。
「地図なんか持ってても駄目だ、入れ替わり激しいから。家具屋もパチンコも今じゃ看板も無いよ」
店主は地図の二ヶ所を指さした。
「ここも花屋の次は本屋になって、それで今は時計屋だから」
「大変なんですね。客足は多そうなのに」
「仕方ない事だわな」
店主は溜息を吐き、店の中へ戻って行った。
スーパーで食料品を買い込み、少し遠回りをして帰宅した。
そして今日、三日目の出掛け先は南に決めていた。可奈子さんが教えてくれた林檎園。商店街の店のように無くなっていない事を祈りながら、お弁当におにぎりを作る。
意味がないと言われてしまった地図もしっかり鞄に入れた。
林檎園へは一本道。南へ進むほどに民家は少なくなり、田畑が広がり始めた。
土の香り。さらさらと風が葉を揺らす音。数十分離れただけで風景はがらりと変わった。田舎と呼べる程ではなく、遠目にはアパートや飲食店の看板も見えるが、喧噪はない。
「引っ越してきたのって、あんた?」
林檎園の入り口で、ツナギを着た青年が汗を拭いていた。
足下には林檎の沢山入った箱がある。
「美味しそう」
「どうも。これは出荷用」
「出荷?」
「どうしても売ってくれって客が居るんだ。パン屋なんだけど。俺もそこのパンは好きだから特別に」
「私もぜひ食べてみたいのですけど」
「お好きにどうぞ。中に朝弥が居るから、そいつに言えば良い」
「あさやさん?」
「俺はこれ運ばなきゃいけないから」
出荷用の箱を足で示す。
「お嬢さん、お名前は?」
「桜です」
「俺は圭介。またな」
圭介さんは重そうな箱を軽々と持ち上げ、鼻歌を歌いながら、町の方へ歩いて行った。
「車は無いのかな。使えば楽なのに」
「免許を持ってないみたいだよ」
「え?」
独り言のつもりだったのに、答えが返ってきたものだから驚いた。
いつの間にか、男の子が居た。林檎園の中、木の影に揺られながら、こちらへ微笑んでいる。
「話し声が聞こえたから、気になって来たんだ。驚かせたならごめん」
「いえ。あの、朝弥さん、でしょうか」
彼は頷いた。
私の名前は聞こえていたようで、「桜さん。よろしく」と言ってくれた。優しい表情ばかりで安心する。
「僕も引っ越してきたばかりなんだ。四日くらい前かな」
「そうなんですか?林檎園で働いてる方かと」
「今日は遊びに来ただけなんだけど、せっかくだから林檎持って行けって言ってくれて。圭介とは引っ越し初日に仲良くなって、良くしてくれるんだ」
朝弥さんに招かれ、林檎園へ足を踏み入れた。
趣味でやっているとは思えない規模だ。
「大きくしすぎたって後悔してるんだってさ」
「大変そうですもんね」
「敬語じゃなくて良いよ。年近そうだし、呼び捨てで」
「……うん」
男の子を呼び捨てだなんて気恥ずかしい。
朝弥と居ると緊張してしまう。心臓がうるさい。今すぐこの場から逃げ出して、布団を頭から被ってしまいたくなった。
初対面なのに。これが一目惚れというものかしら。こんな突然に来るものだなんて思ってもいなかった。
けれど恋なんかして良いのだろうか。いけないのではないか。胸騒ぎが止まらない。
誰にも言えない。会話の内容も選ばなきゃ。気付かれたくない。
名前以外の記憶が無い、だなんて。