平安異聞録-お姫様も楽じゃない-
「今宵は、本当に見事な望月ですね」
知った穏やかな声が耳に届く。
見ると、アタシが腰掛けている塀のすぐ横で、貴雄様が背を塀に預け、アタシと同じように月を見上げて居た。
「…っ」
アタシが息を飲むと、貴雄様はいつもの様に、クククと押し殺した様に笑った。
「ご安心下さい、お顔を見ようなど思っていませんよ」
───今まで我慢してきたのだから…
と言う呟きは、アタシの耳には届かなかった。
「…ただ、貴女の顔を想像する事は、私の楽しみではあります」
雰囲気で、貴雄様が悪戯っぽい笑みを浮かべたのが分かる。
「っそ、その様なご冗談を。この様に頻繁に夜の一人歩きをなさっているのですもの、お通い所があるのでしょう。その方のお顔を浮かべれば、その方もお喜びになりましょうに」
通い所がある…そう気付いた自分自身の心がざわざわとしている事に気付き、思わず素っ気ない態度を取ってしまう。
すると、意外にも貴雄様が、どこか満足そうな驚いたような声をあげる。
「…今宵は、何時になく饒舌ですね?」
「その様な事はございません。…ただ今宵が最後ですので、少しの思い出に…と」
思わず素っ気ない態度をとってしまったと思い、袖で口元を隠しながら、もごもごと言うアタシに、貴雄様は、ただ「そうですか」とだけ笑った。
「そうです」とまたまた素っ気なく言った時、アタシのそばに一つの気配が降り立つ。
「姫、そろそろ女房方がお気付きになりそうですよ」
「貴人っ」
アタシが名前をあげると、貴人はこくりと頷き、一旦貴雄様に目を向ける。
「…姫」
少し責めるような目をする貴人に、苦笑いを浮かべ、「…では」と貴雄様に別れを告げる。
すると彼方からも「ええ」とだけ、短い返事が帰って来たのを合図に、貴人と一緒に塀を飛び降りた。