平安異聞録-お姫様も楽じゃない-
「…どう、して……」
呆然と呟くアタシに、貴雄様はにっこりと笑うだけで、何も答えてはくれない。
「貴雄様…でございますよね?」
もう一度訪ねると、東宮は訝しげに首を傾げた。
「…いえ、私はそのような名ではありません。」
その言葉で、アタシの顔からみるみるうちに血の気が下がって行くのが分かる。
東宮の前で、別の殿方の名前を出してしまったのだ。
お祖父様の事を思うと、自然と視界が滲んでくる。
アタシは何という事をしてしまったのだろう、自分の浅はかさが嫌になる。
「申し訳ございまっ」
頭を下げ、謝ろうとしたアタシはそれをする事が許されず、何故か東宮に抱き寄せられていた。
今度こそ本当に、何も理解出来ないアタシはただ目を白黒させるだけで…
そんなアタシを見兼ねたのか、東宮が噛み殺したようにクスッと笑う。
「すみません、貴女がとても驚いていた様なので、思わず意地悪を…」
意地悪?
他の方の名を呼んだアタシに、意地悪だけなの?
さらに解らなくなるアタシを余所に、東宮がくすりと笑う。
「はい、私は貴雄です。」
ぐるぐると回っていたアタシの頭が、その一言で停止する。
内裏に入る前に、心がつきりと傷んだ。
─もう、貴雄様に会うことは叶わない─
そう思い、とても悲しく切なく辛い気持ちになったのだ。
こんな感情は初めてだった。
だけれど、今は貴雄様に今一度会えた事が、生涯仕える事になろう方が貴雄様で、とても嬉しく胸が一杯で、涙が溢れてくる。