平安異聞録-お姫様も楽じゃない-
しばらくそうしていた兄上は、男の頭から手を離しこちらを振り向いた。
「いかかでしたか?」
「いかがも何も…」
アタシが問うと、兄上は顔をしかめて応えた。
「…これは俺の臆測にすぎないが、後ろには九尾が居るかもしれない。」
躊躇いがちな兄上の言葉に、その場の空気が凍り付いた。
───大妖九尾。
その昔、高千穂で暴れ、たくさんの民を殺め、大陸に渡ったとされる、九つの尾を持つ残虐卑劣で過去最凶の妖。
「…何故、九尾だと?」
その様な大妖の名、軽々しく唱えてはいけない。言霊は確かに存在するのだ。
九尾ほどの妖ならば、名を唱えるだけでもどうにかなってしまう危険がある。
その言葉を口にするのだから、それなりの理由があるのだろう。
「…此奴の頭の中を垣間見た時、靄が懸かっていてどうしても見れない部分がある。」
「でも、それだけの理由で、その名を口にするには少々軽々しいのではないでしょうか?」
ため息をつき、両腕を組んで、頭一つ分位高い位置にある、兄上の顔を見上げる。
「話は最後まで聞くものだ。」
「それは、すみません」と詫びを入れると、兄上はまだ少し納得がいかない様だったが、話を再開した。
「…靄が懸かっているのだ。それも、普通の靄ではない。おぞましい…殺意を感じる何かがある。」
兄上は「どうだ」と言わんばかりに、アタシを睨み付ける。
そして、そんな兄上とは対照的に、アタシは右手をこめかみ辺りに持っていき、眉間に皺を寄せる。
「……兄上、まさかだとは思いますが、それで話が終わり…だとは言いませんわよね?」
「それだけだが。」
アタシの問いかけに、飄々と答える兄上にアタシの眉間の皺は、一層深くなった。
「兄上!!いつも父上から、自分の言葉には責任を持て、と言われているでしょうっ!!それを、飄々と何を申されますかっ!!」
「それで本当に、安倍家を継げるのですか!?」と、一気に言い終えた時、控えめに声を掛ける者がいた。