上司の笑顔を見る方法。
○。
数ヶ月前。
あるプロジェクトの納期が間近に迫り、残業続きだった時期のこと。
他のチームはどこも納期までには余裕があるらしく、午後9時には、私と藤谷さん以外はオフィスから姿を消していた。
オフィスには空調やサーバーの機械音、私と藤谷さんがキーボードをタイピングする音、マウスをクリックする音だけが響く。
あと少しで日付が変わろうとする時間、割り振られた仕事を終えた私は藤谷さんの元に向かった。
「藤谷さん」
「あぁ、終わったか」
「はい。他に何か作業は」
「いや。もう遅いから帰っていい。お疲れ」
私に何も言わさぬ速さで、藤谷さんは「さっさと帰れ」という意味を存分に含ませた言葉を投げてくる。
でも、今は手がけてきたプロジェクトの完成に向けて、最後の頑張り時。
少しでも役に立ちたくて食い下がろうと藤谷さんに一歩近付いた時だった。
「あの、ひゃっ!?」
「!」
すっと立ち上がった藤谷さんにぶつかりそうになり、私はバランスを崩してしまう。
でも私は倒れることはなく、藤谷さんが細身に見える体からは想像できないくらいの力強さで支えてくれた。
「す、すみません、……っ!?」
慌てて藤谷さんの方に顔を向けた時、私の唇に柔らかいものがぶつかった。
距離が近すぎてはっきりとは見えないけど、私の目に映っているのは……藤谷さんの顔。
反射的に藤谷さんから離れ、謝る。
「っ、すすす、すみませんっ!!」
……う、嘘でしょ? 今、触れたよね……唇……っ!
パニックになりながら口元に手をあてて、藤谷さんを見上げた時。
「……くっ、慌てすぎだろ」
「……!?」
その笑い声と表情に、目を疑った。
だって、私の目に映るのは一度も見たことのない藤谷さんの笑顔だったから。
ツボに入ったのかクスクスと笑い続ける藤谷さんは、いつもの無愛想さからは想像もつかない人好きする笑顔を持っていた。
あの藤谷さんが、笑ってる……? この人、ちゃんと笑えたんだ……。
ものすごく失礼なことを思った瞬間、笑顔を向けられる。
「櫻井。おかげでヤル気出たよ」
「へっ?」
「気をつけて帰れよ。明日、また頼む」
「……は、はい」
その笑顔はさっきと同様に有無を言わさぬもので。
「ヤル気が出た」という言葉の意味を聞くことすらできず、私はただ呆然と頷くしかなかった。