魅惑の口づけ


「どうした?」

その部屋に入った途端、いつものテノールの平坦な声で尋ねられる。

まったく変わらないその声で、『おはよう』と挨拶するように聞いてくれるから、今まで固く結んでいた口を開いた。

「……また失敗しちゃった」

とても笑えない、いや笑ってはならない大きな失敗をした。そのため、今の今まで上司から叱責と指導を受けていたのだ。


勤務先はメガバンクゆえに扱う金額も半端なものではない。毎日、営業時間の15時までが特に緊張を強いられている。

窓口業務のテラーから本部への異動が決まった時は、様々な資格取得など努力していた分、本当に嬉しかった。

しかし、大口顧客と直接関わること、そして資産運用や投資信託などのアドバイス。また、お預かりした大切なお金を守ることの難しさに、図太かった筈の神経も擦り切れてしまいそうだ。


「人の金だから何とも感じないだろうな、って……そんなことないけど。ああもう、ほんと私ダメだ……」

今日、私の判断ミスにより五百万円の損害を与えてしまい、怒り心頭のお客様の詰問にもただ頭を下げることしかできなかった。


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