アルチュール・ド・リッシモン
序~生い立ち
百年戦争後期で、フランス側の人間と言えば、誰もが思い浮かべるのが「ジャンヌ・ダルク」。
だが、実はもう一人、イングランド王家とフランス王家、両方と結びつきがありながらも、フランス大元帥として戦った人物がいたのである。
ジャンヌの名が広く知られている割に、彼のことを知る人は、特に日本では少ない「正義の人(le Justifer)」アルチュール・ド・リッシモン。彼がその男であった。
彼は、1393年8月20日にブルターニュのリュイ半島のシュシニオ城で生まれ、6世紀のウェールズの伝説的君主「アーサー王」にちなんだ名を与えられた男であった。
が、ウェールズではなく、ブルターニュだったので「アーサー」ではなく「アルチュス」と呼ばれていたが。
父はブルターニュ継承戦争でしばらく争ったジャン・ド・モンフォールの息子、ブルターニュ公ジャン4世で、母はナバラの悪王シャルルの娘のジャンヌ・ド・ナヴァールであった。「ナバラの悪王」とは、百年戦争前期、イングランドの黒太子エドワードと共にイングランド軍の一因として戦ったかと思うと、ジャックリーの農民の乱ではフランス貴族として参戦するなど、どっちにでも転ぶ男であった。
そのせいか、娘のジャンヌも、夫のジャン4世がまだ存命中の時に亡命してきていたヘンリー・オブ・ボリングブログ(後のイングランド王ヘンリー4世)に誘惑され、夫が亡くなると、さっさと彼の元に行っている。
それを見越していたのか、ジャン4世は亡くなる直前、それまで敵として対峙し、一度は処刑までしようとしたオリヴィエ・ド・クリッソンに後事を頼んだのだった。
ジャン4世が亡くなる4年前の1395年に和解したとは、そこにはどういう思惑があったのかは分からない───。
だが、実はもう一人、イングランド王家とフランス王家、両方と結びつきがありながらも、フランス大元帥として戦った人物がいたのである。
ジャンヌの名が広く知られている割に、彼のことを知る人は、特に日本では少ない「正義の人(le Justifer)」アルチュール・ド・リッシモン。彼がその男であった。
彼は、1393年8月20日にブルターニュのリュイ半島のシュシニオ城で生まれ、6世紀のウェールズの伝説的君主「アーサー王」にちなんだ名を与えられた男であった。
が、ウェールズではなく、ブルターニュだったので「アーサー」ではなく「アルチュス」と呼ばれていたが。
父はブルターニュ継承戦争でしばらく争ったジャン・ド・モンフォールの息子、ブルターニュ公ジャン4世で、母はナバラの悪王シャルルの娘のジャンヌ・ド・ナヴァールであった。「ナバラの悪王」とは、百年戦争前期、イングランドの黒太子エドワードと共にイングランド軍の一因として戦ったかと思うと、ジャックリーの農民の乱ではフランス貴族として参戦するなど、どっちにでも転ぶ男であった。
そのせいか、娘のジャンヌも、夫のジャン4世がまだ存命中の時に亡命してきていたヘンリー・オブ・ボリングブログ(後のイングランド王ヘンリー4世)に誘惑され、夫が亡くなると、さっさと彼の元に行っている。
それを見越していたのか、ジャン4世は亡くなる直前、それまで敵として対峙し、一度は処刑までしようとしたオリヴィエ・ド・クリッソンに後事を頼んだのだった。
ジャン4世が亡くなる4年前の1395年に和解したとは、そこにはどういう思惑があったのかは分からない───。