アルチュール・ド・リッシモン

母の恋人とヌヴェール公

 ジャンヌ・ド・ナヴァールをその夫、ジャン4世がまだ存命中の時から誘惑したヘンリー・オブ・ボリングブログはというと、国王リチャード2世の行動を批判し、イングランドをを追われ、フランスに来ていた時にジャンヌと出会ったのだった。
 後に彼女をイングランドに連れて帰り、正式に結婚もするので、その気持ちは本物だったのだろう。
 だが、そんなことは、まだ幼いアルチュール達には分からなかったし、分かりたくもなかった。彼らにとっては「母を勝手にイングランドに連れて行った憎き男」でしかなかったのである。

 そんな彼らと深く関わることになる人物がもう一人いた。ヌヴェール公こと後の無畏公ジャンである。
 彼も少しはアルチュール達の教育に関わるが、どちらかというとその息子のフィリップ(後の「善良公」)と娘のマルグリットの方が繋がりは密なのだが、簡単に触れておこう。
 彼の大きな動きとしては、1393年、つまりアルチュール達の父が亡くなる6年前、十字軍の遠征でトルコに行ったことが挙げられる。
 中央ヨーロッパへのトルコの侵入阻止の為の十字軍であったのだが、これが何と、ニコポリスで全滅してしまう。
 しかも、敵のトルコ軍の将パジャゼは捕虜になった騎士を即刻斬首した。ヌヴェール公ジャンはその恐怖から何とか逃げ切り、フランスまで戻ってくるのだが、その恐怖が忘れられず、恨みっぽい性格になったと言われている。

 時を同じくして、二人の法王の問題も起こっている。
 当時、アヴィニヨンにはブノワ13世が、ローマにはボニファス法王が存在したのである。
 二人も法王がいたのでは、民衆もどちらのいうことを聞けばよいのか分からず混乱をきたす上に、親戚同士で結婚する際の許可もどちらに貰えばよいのかもわからない。
 そのような状況を改善する為、シャルル6世は大学から圧力をかけ、ブノワ13世の権限を停止させ、プシコー元帥をアヴィニヨンに派遣し、ブノワ13世に服従するよう強制したのだった。
 この結果、ブノワ13世は城に籠もってしまうのだが、ローマはローマでひと騒動起きていた。
 人々が武器をとり、ボニファス法王に反旗を翻していたのである。
 カトリックの最高権力者である法王に民衆が武器を向けるなど、今まで無かったことであった。
 このようにカトリック世界は混迷を極めるのだが、そんな中、アルチュールの兄ジャンが騎士に叙任される。
 父、ジャン4世が亡くなった翌年の1400年3月22日のことで、ジャンはまだ11歳、アルチュールはまだ7歳の子供であった───。
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