アルチュール・ド・リッシモン

ベッドフォード公とグロスター公

 ヘンリー5世の遺言では、ベッドフォード公ジョンがフランス摂政として占領地の行政を行い、その弟のグロスター公ハンフリーがイングランド国内の内政を担当するように、となっていた。
 が、議会ではベッドフォード公を護国卿に指名し、グロスター公はその不在時の代理とする、としたのであった。
 元々その「ベッドフォード公」という爵位自体、1414年5月16日に「一代限りのもの」ろしてジョンに下されたものであり、次の世代も受け継げるものとしては5年後の「リッチモンド伯」があるのだが、ジョンに関しては「ベッドフォード公」の方がなじんでいるので、これからもその呼び方で書いていく。

 彼はリッチモンド伯に叙された翌年、フランスの防衛にあたっていた。「護国卿」たるゆえんは、そこにあったのかもしれない。
 そんな彼は、兄が亡くなるとすぐ9月1日にはまだ生後9か月の甥を「ヘンリー6世」として即位させ「イングランド並びにフランス王」とも宣言させていた。
 フランス王シャルル6世存命中は、それでも問題にならなかったのだが、どういう運命の悪戯か、シャルルも10月21日に亡くなってしまう。
 この順序がもし逆であったなら、混乱など起きなかったのかもしれないが、現実にはタフで元気そうだったヘンリー5世の方が急逝してしまった。
 これを好機と見た、両親から廃嫡されていたシャルルが「シャルル7世」を宣言する。
 これにより、フランスには二人の王が存在するという、異例の事態が起きたのだった。
 とはいえ、シャルル7世は大貴族や僧侶に認められず、地盤も力も弱かったが。
 それでも彼は、逃げ込んだロワール地方をおさえ、干戈(かんか)を交えずしてカレーからボルドーに行けないようにしたのだった。
 それが彼の最後の意地だったのかもしれない。
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