桜の木の下に【完】

*ののside*


健冶さんたちに追い付いたときに、彼の背中が見えた。でも、その手に握っている眼帯が目についたときに私はハッとした。

なんで、それを外しているのか。


「何言って…視力はあるってことなの?」


神楽が私に気付き、焦ったように彼に聞いた。彼の答える声色は、恐ろしい程に落ち着いて聞こえた。


「ある。幻獣だけが見ている風景から消えるだけだ。普通に生活する分には支障はないが、敵が見えないんじゃ俺は使い物にならない。だから、説明するのも面倒だったし、迷惑をかけたくなかったからずっと黙ってた…すまなかった」


幻獣が、見えない……?

迷惑……?


「それ、のっちも当然知らないのよね」

「ああ、そうだ。言えば自分のせいだと責めかねない」


そんなの、私の勝手なのに。

言ってくれても良かったのに。

彼のことだ、一人で抱え込んで自分の中で消化して吸収して誰にもわからないように隠していたに違いない。

そんな重大なことの隠す理由がそんなことだったなんて…絶対にダメだ。


「だってさ」

「……っ!」


神楽が私がここにいることを明かすと、彼は私を振り返った。

その両目は大きく見開かれたけど、一瞬で仮面に覆われた。

それで無表情のつもりなの?

私にはわかるのに。

あなたのポーカーフェイスはもう通用しない。

彼は後悔している。そして、傷ついている。

自分で自分を痛め付けている彼が可哀想だった。やめて、と止めたかった。

それすらも叶わなかったなんて、私は自分のことしか見えていなかったんだね。

彼のことを想うと、切なくなって胸が苦しくなった。

辛かっただろう、悔しかっただろう、苦しかっただろう。

自分が不甲斐ないばかりに、幻獣使いとしては命やパートナーの次に大切なものを失ったのだから。


「あっ…あっ……」


言葉をかけたいのに、渇いて上手く口が動いてくれない。

「気づかなくてすみません」

「相談に乗れなくてごめんなさい」

そんな言葉が、頭の中でグルグルと渦巻いて離れない。私は私自身を責めていた。

あのとき、学校閉鎖が決まったときに彼の考えを垣間見た。でもそれは、本音ではなかったのかもしれない。

焦っているように見えたのは勘違いだったんだ。

本当は、このことに頭を悩ませていたかもしれなかったんだ。

事実はどうであれ、私は重大な罪を犯した。周りがよく見えていなかった。

そんな後悔が、涙となって溢れ出す。

泣くなんて…一番ダメなのに。

何も話せなくなる。

何も、伝わらなくなる。


「聞いてた…よな。すまない桜田。黙っていた方が良かったと思ってたんだが、今の君の姿を見て後悔している。かつて君が見ていた風景を俺も体験しているのが、なんだか不思議だよ」


健冶さんが目の前でそんなことを言うものだから、もう立っていられなくなった。

そんな、後悔なんて…私が悪いのに。

私が原因なのに。一人でのこのこと言われたまま安全なところに逃げ込んで、戻っても状況があまり飲み込めないまま、足手まといになってた。

明月が見えない、幻獣が見えないことに甘えてた。もっと注意深くしていなきゃいけなかったのに。

起きたら突然、幻獣が見えなくなっているのに気づいたとき彼は何を思った?

絶望したに違いない。恐怖を感じたに違いない。

それでも一人で上手く立ち回った。

立ち回らせてしまった…

彼の胸に抱かれながら、私は涙を流し続けた。

やがて、彼の手が頭から目尻に移動し、頬に添えられた。

顔を上げさせられ、私は恥ずかしかった。

こんな私を見ないでほしい。でも、見てほしかった。

久し振りに見た彼の顔は、美しかった。

歪められてはいるけれど、残酷なほどに眩しかった。でも背けてはいけない。

表情の変化を、見逃してはいけない。


「け、んじさ……」

「ああ、わかってる」


わからない。

私にはあなたの心がわからない。

教えてほしい、さらけ出してほしい。

この手で何を感じる?

その目に映る私はどう見える?

もう、この切なさは伝わらないの?


「健冶さ…んっ」


バカみたいにまた名前を繰り返そうとしたとき、彼の唇に口を塞がれた。

その行動に目を見開く。

うっすらと伏せられた瞳には、後悔の念が揺らめいていた。

違う、健冶さんのせいじゃない。

全て私の責任だ。

私がまだまだ未熟者だから……

キスの余韻が残る唇は、また動かなくなった。

「行かないで」と言いたいのに声が出ない。

「置いていかないで」と言いたい。

「手の届くところに置いてほしい」と告げたい。

でも、やっぱり届かなかった。

彼は私から身体を離して微笑んだ。

なんで笑うの?私を安心させるため…?

私がただただ地面に手をついて見ているなかで、健冶さんは直弥さんを引っ張って消えてしまった。神楽も急いで後を追った。


「なんで…待って…!健冶さん!!」


粉々になった瓶の欠片だけが私の叫びにキラキラと光って答えるだけで、彼らはすでにいない。

私は無力だ。

何もできない。

言いたいことも言えないなんて…

一言、一言だけ言いたかった。伝えたかった。他全てが伝わらなくても、これだけは伝えなければいけなかった。

一言、「いってらっしゃい」と。

そうすれば、丸く収まったんだ。

私は彼が行くことを受け止め、彼は未練もなく出発できたのに。

余計、こじらせてしまった。

今こんなことを考えていても、もう遅いのに。


「ののちゃん……」


黙って見守っていた加菜恵さんが私の肩に手を置いた。

そうだ、まだ終わってない。

次に伝えなければいけないのは「おかえりなさい」だ。


「すみません加菜恵さん。もう大丈夫です」


私にできることはもうないけど、待つことならできるよね。

里桜たちにはこのあと、神楽に喚ばれたら向こうで精神の分離をするという大事な役割がある。

できればそれに同行したかったけど、もうその思考はいったん捨てよう。

自分でもしつこいと思う。


「里桜、頑張ってね」

「そんな、涙でグシャグシャした顔のおまえに言われるまでもねーよ。だから安心して家帰って寝てろ」


里桜は私が昨夜ろくに寝ていなかったのを知っていたのか。


「帰らないよ、ここで待ってる」


彼に一番近い、この場所で。

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