桜の木の下に【完】
襲撃
*直弥side*
……動けねー。
『あら、逃がしちゃったのね』
ピリピリと空気が張りつめて、頭のてっぺんから足にかけて重りが乗っているような感覚。
足が動かない。
「直弥!」
そんなオレの様子を見て、焦ったように名前を呼ぶ健冶。でもアイツは平気なようで、オレの隣に立って地面に膝をついているオレの腕を引っ張って立たせた。
グンと地面が遠くなる。
オレってこんなに背が高かったっけ。
「しっかりしろ!直弥!」
『弟くん、もしかして弱いの?』
誰かに似たような顔の女性は、オレたちとの距離をつめながら無邪気に首を傾げた。
健冶は怯むように少し後ずさりをする。
……あ。
じりじりと距離をつめてくる女性のせいでオレは動けないのだと、今になってやっとわかった。
そして、今回の依頼の幻獣……明月があの女性であることも理解した。
「明……月……」
『ふふふ、私の名前知ってるなんて光栄ね』
オレの呟きに明月は嬉しそうに笑った。その様子はなんら人間と変わらない。しかし、ヒト形の幻獣の特徴をオレたちは知っている。
ヒト形は、めっちゃくちゃ強え。
『でも、今回の私の狙いはあの子じゃないわ……貴方よ』
明月は瞬きしたそのとき、すでにオレの目と鼻の先にいた。オレの頬に冷たい指先が添えられている。
健冶は舌打ちをすると、素早く間合いを取った。完全に足手まといだった。
「健冶、オレに構ってないで戦え」
「バカ言うな。あいつの狙いはおまえだ」
「健冶がそんなだからオレが狙われるんだ。オレを狙えば健冶が庇う。健冶、アイツの元々の狙いはおまえだ」
「それなら、両方狙われてるってことで良いだろ」
「バカはおまえだ、バカ野郎」
『うふふ、兄弟仲が良くていいわね。私も交ぜてくださらないかしら?』
また身体が重くなったと思ったら、明月との距離が縮まっているのだと気づいた。
「またか」と健冶は忌々しそうに呟くと、オレを後ろに突き飛ばした。身体がまた軽くなる。
そう、オレは弱い。普通の人よりは強いが、健冶よりは弱い。
その差がコレだ。アイツの『気』にやられちまってる。
突き飛ばされたオレはバランスを崩したが、背中が地面に付くことはなかった。
フサフサとした毛並みが手のひらに当たって、白虎丸がいるのがわかった。健冶の足下にも大蛇がいた。
呼んでもないのに来るなんて、な。
涙が出そうだぜ。
「ここからだ、明月」
『そんな怖い顔しないで欲しいものね。せっかくのルックスが台無し』
「おい健冶……っ!」
健冶に近づこうと走り出すと、何かの壁に当たって跳ね返された。
手を伸ばすと、水の膜が二人を覆っているのが見てとれた。
なにやってんだよアイツは!
「健冶!入れろ!」
「そこで見てろ!」
「は?」
健冶の真剣な眼差しに気圧させるも、何か意図があるのだとその目が語っていた。
でも、読み取る前にその目は見えなくなり、代わりに薔薇のつたが迫ってきてオレは身を伏せた。
でもそのつたは貫通することなく、水の膜の柔軟性によって免れた。つむじの先スレスレを薔薇のトゲは引っ込んだ。
おかげでオレも傷が付かなくてすんだ。
なるほど、明月は薔薇を操るようだ。でもいったい何を食べて生きている?
『私は植物。明月なんて名前だけど、ただ単にお酒の名前なんだから笑っちゃう』
「よそ見をするな!」
『大丈夫よ、ちゃあんと貴方の可愛いお顔は見てるから』
向こう側では薔薇のつたが縦横無尽に暴れ回っている。健冶はそのつたを氷の剣で切ることしかできないでいた。
大蛇は水を自由に操る幻獣で、その温度さえも変えられる。だから氷を作ることもできるけど、今は春だからか少しその剣は脆い。
切っては壊れ、切っては壊れを繰り返している。
『貴方のスタミナ切れも時間の問題ね』
薔薇の攻撃は止むことがなく、健冶の息も上がってきた。オレはただ、そんな健冶の動きを観察した。
地面に散乱した氷……
それらが若干溶けてキラキラと輝いているのを見て閃いた。
なるほど、そう言うことか。
「……これで、どうだ!」
『無駄よ無駄』
健冶が散らばった氷を空中に浮かせると、その切っ先を明月に向けて飛ばした。
四方八方から飛んでくる氷をまるでハエを叩き落とすように、つたで同時に叩き切った。
だが、その氷は瞬時に溶け水となり、明月のつたや身体をびしょびしょに濡らした。
明月はその水で服が濡れたことに激怒した。
『もう!服が濡れちゃったじゃないのよ!』
「……直弥!」
「雷撃!」
オレは健冶の合図に待ってましたとばかりに勢いよく命令した。白虎丸が身を翻すとそれに合わせて雷が明月めがけて落とされた。
白虎丸は雷を操ることができる幻獣だ。
雷を落とされた明月は悲鳴を上げると、項垂れ、腕もだらりと垂らしたまま棒立ちになった。
オレは、よし!と思って健冶に近づこうとしたけど、また水の膜によって阻まれた。
オレは眉間にしわを寄せて健冶を見た。
「健冶!」
「……逃げろ」
「は?」
「逃げろって言ってんだろ!」
また何か意図があるのかと健冶を見たが、その目には何もなかった。
意図なんてなく、ただ純粋な焦りと恐怖が滲んでいた。それは声にも表れ、苛立ちや大きさ、震えによってオレに迫ってきた。
なあ、今のうちにオレたちでトドメをさせばいいんじゃねーのかよ?
オレは水の膜を破ろうと腕を伸ばしかけたとき、僅かに明月の肩が震えているのに気づいた。電撃で痙攣しているのかと思ったが、違った。
………笑っていた。
『ふふふふ……可笑しいわ。可笑しすぎて涙が出そうよ。本当に憎らしいぐらい可愛い』
項垂れていた顔が上げられたとき、オレは恐怖で背筋がゾッとし、鳥肌がブワッと全身を駆け巡った。
濡れた髪の隙間に浮かぶ歪んだ口許に、笑っていない二つの目。表情があるようでないような、ヒトがする表情とは程遠い。
壊れたヒト。
ヒト殺しをするような、凶悪犯がするような表情だった。
『さて、どう料理しましょうか。まずは服を裂いて、皮を剥がして、骨を抜いて、血を啜って、身を切り刻み、一口大にして食べる……なんて贅沢なのかしら』
その言葉のどれもを想像してしまって、さらに身体が硬直してしまった。アイツの『気』のせいでまた身体が重くなった。
動けよ。なんでそこで見てるだけなんだよ。
健冶が殺されそうになってんだぞ?