桜の木の下に【完】
首を長くして待っていたけど、なんだかんだで時間は早く過ぎ去りあっという間に当日の夕方になった。
せっかくだから、と神楽が校長の秘書……だけど奥さんだと知って驚いた加菜恵さんを呼んでくれて、浴衣を着付けてくれるように頼んでいた。
浴衣はお母ちゃんが着ていたものを押入れから引っ張り出して着ることにした。勝手に着ていいのか迷ったけど、それしか浴衣が無かったから選択肢なんてなかった。
淡い紫色の浴衣で、桜のイラストと銀色のラインが散りばめられた静かな感じの浴衣だった。
お母ちゃんはこういうのが好きだったのかな。
「のっち、似合うじゃ~ん」
「神楽も素敵な浴衣だね」
「当たり前よ。あたしのセンスに狂いはないわ」
神楽の浴衣は黒に大きな金色の蝶が舞っていて、ピンク色の花が描かれていた。普通なら浴衣ばかりが映えてしまうような柄だけど、神楽だから完璧にマッチしていて違和感がない。
「じゃあ二人とも気をつけていってらっしゃい」
「加菜恵さんもわざわざありがとうございます。お留守番も断って良かったんですよ?」
「いいのいいの。夜の日本家屋は風情があって気持ちいいもの。旦那も今日は帰りが遅いみたいだからむしろ好都合よ」
「あ、そこのテレビ勝手に見ていいですから」
「ふふ、ありがとう」
加菜恵さんは笑いながら手を振って見送ってくれた。
男子はすでに先に行ってしまった。
「でもなんで健冶は行くことになったわけ?」
「直弥さんがどうしても一緒に行きたいみたいで助言したらこうなったんだけど」
「ふーん。何かしら」
神楽は首を捻って私を見たけど、それ以上聞いてくる気配はなかったから、最後のお楽しみとして取っておくつもりのようだ。
家から歩いて大通りまで出ると、私たちと同じようにお祭りに向かっている親子連れやカップルやグループが目についた。
洋服の人もいれば浴衣を着ている人もいる。
「結構大きいお祭りなのかな」
「あんまりキョロキョロしちゃダメ。幻獣に目をつけられたら面倒になるし」
「でも私見えないけど……」
「見えなくても、向こうからは見えるんだから気を付けないと。人間の空間で長くとどまってる野性の幻獣はたまに普通の人でも見ちゃうときがあるんだから」
「え、そうなの?」
「それがオバケの延長。あとは、夢で何かに追われてたけど起きたらさっぱり思い出せない、とかっていうのも当てはまるときがある」
「へえー…」
「夢の中で追いかけ回してエネルギーを奪われるから、起きたときスゴいドキドキしてる、なんていうのも常よ」
「あー、なるほど」
ふむふむ、と感心していると、お祭りの屋台の入り口にたどり着いた。
ここだけキラキラと明るくなり、ガヤガヤと人の騒音が聞こえる。
確かに、ここに幻獣が紛れていてもおかしくないね。
「ここにいれば合流できるはず。どんな屋台があるかわからなかったから、入り口から一番近い綿飴屋さんの前にしたんだけど、まさか一番手前にあるとは思ってなかったわ」
その入り口にある綿飴の屋台のわきで神楽は立ち止まった。
………綿飴。
「なに物欲しげな顔してるの?」
「………そんな顔してるかな?」
「犬がよだれ垂らして待てに必死に従ってるみたいな感じ」
「えー大袈裟だよそれは」
綿飴屋さんをついつい覗いていると、隣で神楽が苦笑した。
大袈裟だと言いながらも、小さい子どもがアニメのキャラクターのパッケージに入った綿飴を買ってもらっているのを目で追ってしまって、「そんなにガン見しなくても」とまた神楽に苦笑された。
「買う前って何でも魅力的に見えるものよ」
「そうなのかな」
「何でも、手に入らないものを人間は欲しくなるんだから。いざ手に入ったらそこまでじゃないって気づくことが多いし」
「それは体験談?」
「そーよ。あたしなんて売られてる服が全部魅力的に見えて目移りしちゃう!」
その光景を思い出してるのか、神楽は恍惚とした表情で宙を見ていた。よほどショッピングが好きなのだろう。
私は興味があるわけじゃないからその気持ちの半分も理解できてないと思う。
女子力低いなー、とナーバスになっていると、後ろからいきなり肩を叩かれて思わず変な声を上げてしまった。
「ひゃんっ!」
「……いや、オレのせい!?」
「ご、ごめんなさい。ついビックリしちゃって」
バクバクと暴れる心臓をなだめるように胸に手をあてた。
叩いた犯人はなんと直弥さんで、私が普通じゃ出さないような声を発したものだから、反射的に神楽が彼の胸ぐらを掴んでしまったみたい。
ぐえっ、という顔をした直弥さんは降参の意で両手を顔の高さまで挙げた。
でもそれが神楽のお気に召したのか、そのまま前後に胸ぐらを揺らされていた。
「待ってくれ苦し……さっきのたこ焼き吐くって………」
「やっぱり!!先に食べてたんじゃん!たこ焼きの匂いがプンプンしてんだもん」
「だってオマエらの支度があんまりにも遅いから…」
「あ…健冶さん」
「……」
直弥さんのイタズラ心満載の登場で全然気づかなかったけど、ふと彼の後ろに健冶さんが立っているのを見つけた。
濃紺の浴衣を着たその姿はなぜだか儚さを感じた。細身で高身長だからよけいに感じるのかもしれない。
そして、失明している右目を隠すように狐のお面を被っていた。
「どーよこれ。ちゃんと隠せてるよな」
「……なんで俺がお面なんか」
「グラサンよりはマシじゃん」
「参加するつもりはなかったんだ」
「でも自分から着替えたし、行きたかったんだろ?照れるなって」
「照れてなんか………」
「直弥、さっさと行くわよ。チョコバナナと焼きそばとたこ焼き食べるんだから」
「ちょ待てって延びるから引っ張るな!つーか食いすぎだろ!」
「たまにはいいでしょ、炭水化物のオンパレードも」
直弥さんに肘でつつかれて弄られて健冶さんはへそを曲げたけど、神楽が目をランランと輝かせてその直弥さんの腕をぐいぐいと引っ張ったおかげでホッとしたような表情をした。
でも二人だけ先を独走しだしたから、私は慌てて足を踏み出した。
「待って二人とも……ひゃっ!」
慣れない下駄を履いているせいか、小さな段差に躓いてしまった。
浴衣が汚れるとか、石畳だから痛そうとか、そういったことが頭を横切って目を瞑ったけど、予想とは全く違い、硬い衝撃の代わりに柔らかな感触にふわっと包まれた。
恐る恐る目を開けると、目一杯に広がる濃紺の浴衣。
「……っと」
「わわ、ごめんなさい…!」
「いいから、ゆっくり立て」
「すみません……」
転びそうになったところを健冶さんに助けられた。
彼の胸に飛び込む形になってしまって、驚きと恥ずかしさで慌てて身体を離そうとしたけど、それを許してはくれなかった。
彼は私の手を取って握り、私のバランスが崩れないように立つのを手伝ってくれた。
「気を付けろよ」
「すみません……」
「…完全に見失ったか」
「ごめんなさい…」
健冶さんは私が立つのを見守ると、後ろを振り返って人混みの中を探したけど、二人の姿はもう消えていた。
私は申し訳なくて何度も謝るしかなかった。
それを見かねたのか、健冶さんはため息を吐いて私の頭をポンポンと二度優しく叩いた。
「謝らなくていいから、探すのを手伝ってくれ」
「……はい」
うう、なんと情けないことか。
子供扱いされたような気分になり、羞恥で顔が熱くなった。ついでに頭も熱い気がするから、きっと健冶さんにも熱くなってるのがバレたはず。
「……また転びそうになっても困る」
「え、いや、あの大丈夫ですから!」
「迷子にもなりそうだ」
「そんなに子供じゃないです!」
「ふっ…どうだか」
健冶さんに人混みに入る寸前に手を握られた。驚きで声をあげると、鼻で小さく笑われてしまった。
その笑顔を久しぶりに見られてホッとしたのに、歩いている途中で金魚すくいではしゃいでいる男の子を見たときにやっと気づいた。
あ……健冶さんが笑ったの、久しぶりかもしれない。
意識を取り戻してからというもの、片目だけの生活に四苦八苦してたし、包丁で何度も指を切ってしまっていた。
代わろうとしたけど、頑なに「慣れれば平気だから」と拒否された。彼には、一人で何でもできるようにならないといけない、という変なプライドがあるみたいだった。
真っ直ぐ歩くことも困難で、よく階段を踏み外しそうになっていた。「住み慣れた家なのにな」と自嘲気味に笑っていたのを今でも覚えている。
だから私は提案したんだ。
「私の家で住みましょう」と。隠れる必要はなくなったんだから、二階のない私の家なら階段で怪我をすることもなくなるし。
そして、真っ先に賛成してくれたのは直弥さんだった。やっぱり、そのことは直弥さんも心配していたんだろう。神楽も了承してくれたから、なかば強引に健冶さんを私の家に引っ張り込んだ。
でもやっぱりずっと、健冶さんは寂しそうだった。
住み慣れた家……家族と一緒に住んでいた我が家から離れて暮らすなんて。
私だって、彼らの家で暮らすことになったときやっぱり寂しかった。
知らない風景、匂い、音……
借りてきた猫みたいに、問題を起こさないようにひっそりと息をしていた。
でも、今では強気に出られる。
「じゃあ健冶さん、リンゴ飴買ってください」
「は?」
「というか、一緒に食べたいです。健冶さんも食べたことないですよね?何か食べないと花火を見る頃にはお腹ペコペコになってしまいます」
「………仕方ないな」
「いや、だからあのですね、子供の我が儘に付き合ってあげてる感を出すのはやめてくださいよ!」
「我が儘なのは事実だ」
健冶さんにそう言われて「うん」「え、でも違うって」と、自分で肯定して否定してを繰り返していると、ビニールに包まれたリンゴ飴が目の前に降ってきた。
「わっ!キレイですね!」
「…そうだな」
初めてのリンゴ飴は思いの外キラキラと輝いて見えて、真っ赤な宝石を彷彿とさせた。
でも食べてみたらやたらと甘ったるくて。
「甘過ぎないか?」
「ふふ、そうかもしれませんね」
その甘さに顔をしかめる健冶さんについつい笑ってしまった。