桜の木の下に【完】
「あれ…いないですね」
「そうみたいだな」
「ごめんなさい、見間違いだったみたいです」
私たちが神社の階段を登って鳥居をくぐってたどり着いた先には神楽はいなかった。
きょろきょろと見渡すも、誰もいなかった。
私の早とちりのせいで迷惑をかけてしまい謝ると、健冶さんはふと私を見ると眉をひそめた。
「足、平気か?」
「え?」
「赤くなってる」
下を見ると下駄の鼻緒に擦れて指の間が赤くなっていた。見た目ほど痛くはないけど、健冶さんはしゃがんで心配そうにそこに触れた。
「少し休むか」
上目使いにそう言われ、私は従うことしかできなかった。
こういうときの有無を言わさない雰囲気が兄に似ていると思いながら、やれやれと彼に従う。
私たちは近くの長椅子に座った。
屋台の喧騒を遠くに聞きながら、小高いこの場所から街を眺める。明るい街のせいで星はあんまり見えないけど、蛍がいるぐらいの片田舎のこの地では空気が新鮮だ。
前の学校は大きな駅に近いところだったから、知らない人に埋もれながら生活していた。友達も特定の人としか付き合わなかったから、クラスでは少し浮いていたかもしれない。
「……あれ」
花火が楽しみだから時計を逐一確認していたんだけど、このときになって初めて気づいた。
花火まで残り二十分のところで時計が止まっている。
「針が動いてません……え?」
と健冶さんを見ると、彼は固まっていた。
固まっているというか、停止しているような……瞬き一つすらしない。
その光景に寒気がして、椅子から勢いよく立ち上がって彼を力強く揺すった。
「健冶さん、健冶さん!」
「のの、迎えに来たわ」
後ろから急に声をかけられてバッと後ろを振り向けば、そこにはあの浴衣を着た神楽がいた。
でも、声が違う。
「私を受け入れる気にはなったのかしら?」
「なんで、ここに……」
「ちょっと、ね。困ってそうだからかしら」
「困ってる?」
「封印の手がかりがなくて困ってそうだからよ」
「それは……」
そこにいるのは神楽の姿をした、夢に出てきた幻獣。今度はお母ちゃんの姿ではなかった。
最近ではもう忘れかけていた存在。
「まあいいわ。貴女に選択肢はないもの」
「いきなり何言って……」
「明月がまた近々現れる。それを教えたら貴女は何を思う?」
「何って……?」
後ろに庇うように健冶さんを背にして彼女と対峙する。実際にこうやって夢じゃないところで会うと、彼女の違和感を感じて変だった。
味方のはずなのに、身構えてしまうような、そんな雰囲気が彼女にはある。
「また貴女は自分の都合で他人をケガさせるのかしら。貴女はもうこちら側の人間なんだから、普通を捨てるのを躊躇するなんて考えている場合じゃないわ」
「……考えてない。そんなこと」
「ふーん?」
「確かにあなたを受け入れれば私は明月に狙われることはなくなる。でもそうなると、ターゲットが変わるだけだ。また誰かが狙われることになる。違う?」
「……」
彼女から柔和な笑みが消えた。
ああ、私の予想は外れていなかった。
彼女の狙いはハナから私だけ。私をどうにかして丸め込もうと、こうして姿を現してきた。
「あなたに私は渡さない。渡してたまるもんか」
「それが貴女の答え?私だったら、貴女の感情を潰してその身体を乗っ取ることだってできるのに」
「できるものならやってみればいい。あなたの望みは私に手を貸すことじゃないのはわかってる」
「じゃあ何かしら」
怒ったような焦ったような口調で彼女は私に聞いた。
だんだんと核心に近づいている。
「明月が現れると吹聴し、私に無力さを教え込んで丸め込み受け入れさせる…一人二役をやるのは忙しかったんじゃないの?あなたの望みは私の身体そのもの、そうでしょう?明月!」
「……バレてたのね」
「そして、これも本当は夢の中なんだ」
喧騒はまだ続いている。
でも時計の針は動かないし、ここには誰も来ない。本当ならおみくじ目当ての人でごった返しているはずなのに。
いつから私は寝ていて、どこからどこまでが夢なのかはわからないけど、この神社に来てからおかしかったのはわかる。
「でももう遅いのよ。貴女が起きることはない。私の手によって壊される運命にあるのだから」
「私は助けが来るのを信じてる」
「無理よ、助けなんて来ないわ。私の力に敵う人間がいたかしら」
少し平静を取り戻した彼女は勝ち誇ったような微笑みをたたえながら、ゆっくりと私に近づいた。じり、と後ずさりする。
でも私には一つだけ希望があった。
それは、この場にあんな様子だけど健冶さんがいるということ。つまり、健冶さんの影響がこの場に残っているということだ。
彼の何かがこの場にたたずんでいる。
それが私に残された一筋の希望。
私が健冶さんから離れて明月と縮まる距離を遠くしようと足を動かしていると、いつの間にか階段の方に誘導されているのに今さら気づいた。
踵に嫌な感覚があった。
地面がない。
「そこから落ちて頭でも打てば楽になるかもしれないわよ?私に無理矢理おかされるよりは」
「ならいっそ、ここから飛び込んでやる!!!」
「待ちなさい!!!」
力一杯叫ぶと、私は下を確認せずに背中から倒れた。髪が風に揺れている。
階段の硬い感触を覚悟していたのに、その代わりに少しして水に身体が落ちた。
階段がある、その下には屋台があると思っていたのに、広がっていたのは透明な水だった。
明月は追って来ない。
ただただ真っ暗な水の中を落ちていると、誰かに背中から腕を回され優しく抱き締められた。今までどこかよそよそしかった水がいっきに温かくなる。
私はこの腕に覚えがあった。
大丈夫ですよ。
今度は下駄のせいで転んだわけじゃないですから………