桜の木の下に【完】
遠い昔の話
*
そこは薄暗い丘の上。
山の間から今にも隠れそうな夕陽がふもとにある里全体を照らしている。
田園風景が広がり、川が小さな里の中心を貫いていた。
ふと隣を見ると、満開の古い桜の木がそびえ立っていた。風の流れに合わせて花が揺れ、花弁が目の前を飛び回る。
心地よい気温と空気にすっかり癒されていた。
「ここがどこだかわかるか?」
後ろから声をかけられて振り向くと、男の子が地面に生える草を踏みわけながら近づいてきているところだった。
なんとなくわかる、と私は小さく頷いた。
「掛け軸の絵、だよね」
「正解だ」
満足げに彼は笑うと、探るような目付きをやめて私と桜の間に立った。
彼が桜の木に指先を触れさせた瞬間、二つの瞳が真っ赤に染まった。
そうだ…彼の目はもともと黒ではなくて赤いんだった。夢で見た通りなんだ。
「俺の名前、思い出したか?」
「うーん、ここまで出かかってるんだけどね」
と、私は首の辺りまで甲を上にして腕を上げた。
でも彼は怒らず、クスクスと笑っていて余裕そうだったから驚かせてみたくなった。
「ふふ、実はもう思い出してるんだ」
「ほう」
彼はわざとらしく感心したように目を見開いた。私はそれに口を尖らせた。
……わかってるくせに。
「君には名前がない、違う?」
「なぜ?」
「私が考えておく、って言ってた矢先に封印されちゃったから、だったよね」
「いつ思い出した?そんなシーンは見てないだろう」
「ここに来たら思い出せた。私があの頃考えていた名前にぴったりだったから」
「ふーん?」
彼は普通を装って眼下にある村を眺めた。でもその心は名前が気になって仕方ないと思う。
私は今までのお返しにと、焦らすことにした。
「君と契約を結んだとき、私はまだ幼かった…幼すぎた。言葉も知らない赤ん坊に名前を決めてもらうなんて無理な話で、君は私が成長するまで力もあまり使わず過ごしていた。でも君には名前なんて今までの人からたくさん貰ってるだろうから、あんまり関係ないんでしょ?」
「確かに名前はある。だが、思い出せないんだ。今までの主の顔は思い出せても、な」
「名前は結び付きを強くするためにも、所有者が決めなければならない」と彼は付け加え、私をちらっと恨めしそうに見た。
そろそろ我慢の限界かな?
「里桜(りおう)。それが君の名前だよ」
「………ハハハっ!面白い!!」
「え、なにが?」
「おまえは面白いやつだと笑っているのだ!」
男の子…里桜は腹を抱えて爆笑し始めてしまった。私はその反応に目が点になるしかなかった。
笑いのツボがよくわからない。
「……ああ、気分を害したならすまない」
「いや別に、謝るほどじゃ…」
「里桜か、懐かしい響きだ」
「もしかして、前にも同じ名前を貰ったことがあるの?」
「ああ、確かにあるぞ!最初の名前だ!これは傑作だな!実に面白い」
里桜は目にあてた手を離して、私と目を合わせた。
赤い瞳が喜びで潤んでいる。
「俺をこんなに愉快な気分にさせたご褒美に、昔の話をしてやろう」
彼は嬉しそうに微笑むと、地面にどかりとあぐらをかいて座り、隣をポンポンと叩いて「こっちに来い」と誘った。
それに従って隣に座る。背中は桜に預けて目の前にある森を眺めた。
すっかり夜になった空には、無数の星が輝いていた。