桜の木の下に【完】
それは遠い昔。
まだ電気もなくて移動手段も馬車や徒歩のみといった、文明がまだ発達していなかった時代。
春になると桜が咲くのを、人々は楽しみにしていた。
桜が咲いたから春になったのだ、と疑うことのなかった穏やかな時代に彼はいた。
彼は昔を生きた幻獣だった。そんな彼の供給源は人々の喜び。
桜を見上げて笑い合う人々の活気が彼に元気を与えていた。彼はその活気だけで一年を生きられ、また春になって力を貰っていた。
いわば、彼は今でいう桜前線。
彼が通れば桜は次々と花を咲かせていた。日本をゆっくりと北上し、一年かけて南下してまた桜を咲かせるのが彼の役目だった。
しかし、文明が発展するにつれて人々は桜を愛でる機会を減らしていった。
さらには桜の開花を予測しようとする人間も現れた。そのせいなのか、桜は彼が通らずとも咲くようになってしまった。
桜が咲いたから春が来たのではなく、春が来たから桜は咲く、という人間の確固な思念が桜に伝わってしまったのだ。
それに気づいたときにはもう遅く、彼はすでに咲いてしまっていた桜を見ては悲しんだ。
俺の役目は無くなったのだ、と彼は思い、力を保存するべく深い眠りについた。人々から貰った、活気のあった頃の力を失わずにすむように。
しかし、その眠りはあまり長くは続かなかった。
彼と同じようにして生きる場を失った幻獣たちが暴れだしてしまったのだ。
富士山の噴火や、大規模な地震、多数の死人が出てしまうほどの疫病など、人間が築き上げてきた新しいものをすべて壊しかかるかのごとく、幻獣たちは暴れた。
ここにいる、俺たちはここにいるんだ!忘れないでくれ!と主張したかったのかもしれない。
暴れた幻獣はすぐに消滅してその後の惨劇を知るよしもなかった。自分の犯した大罪を目の当たりにすることもなく消え、事態の収拾は被害者である人間だけで支え合うしかなかった。
住む家を失い、仕事を失い、家族を失い、人々は嘆いた。
そんな日々から少し経った後に、とある人間が彼を訪ねた。ちょうど、こうやって桜に背中を預けて、残り少なくなる力を感じながらただただぼーっとしていたときに。
『手を貸してはくれまいか』
低い声でそう言われたが、気が遠くなっていた彼は最初その人間がそこにいることにも気づかずに黙っていた。
彼は消えようとしていた。
背中にある桜と同化し始め、腕はもう枯れた枝のように茶色く細く固くなっていた。
しかし人間は諦めず、そんな彼に言葉の水をあげ続けた。
『君も人々も救いたい。君たちのような存在を見ることのできる者を集めて方々(ほうぼう)に旅させ、時代の流れを変えたいのだ』
『もはや以前には戻れまい。平和な世は終わり怒涛の流れが襲ってくる。その流れに便乗して君たちがまた暴れ回ってしまったら、また桜を愛でる時代は二度とは訪れまい』
『君たちはそれでよいのか?何もせずに消えてもよいのか?私は認めぬ。君は善い心の持ち主だ。傷つける選択をせず、我が身を犠牲にする道を歩んだのだから』
人間の言葉は彼に雨のように恵みを与えた。
彼は涙を流した。
本当は消えたくない。
そんな想いが涙を流させる。
『この手を取れ』
もう彼に拒否する気持ちはなかった。
『君の名は里桜だ。里の人々を温かく見守る桜のような存在だったのだろう?』
少し違うと思って彼は笑った。
その頃には、彼はもう元の姿を取り戻しつつあった。