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夜のオフィスは、

皆が退社した後、一度缶コーヒーを飲んでからまた薄暗いオフィスに戻った。
大きな窓から、クリスマスに向けて施されたイルミネーションがチカチカと光るのが見える。
何年も縁遠いな、と我ながら寂しい感想を漏らすと、私のデスク辺りの一部分だけダウンライトのスイッチを入れてから軽く伸びをした。

やりますか!と体を向けると、確かに誰もいなかった筈のオフィスにーーーー


前触れもなく、物音もせず、ただ唐突にーーー唐突に、人が現れた。



私は、知らず息を呑む。
驚いたわけじゃない。
いや、そりゃ驚いたけど。
ひゃーとかぎゃあとか声を上げて驚いていた時期は過ぎた。今なんて一呼吸置けば、ああ、君、今日も現れたんだ。元気そうねー、なんて呑気にその人を眺めるだけの余裕はある。

疲れてるなあ、と思うくらいには私は現実主義者だし、非現実的なことを真っ直ぐ受け止めるファンタジー精神も持ち合わせてない。
例えば、猫が喋ったとか、植えた種がすぐ芽吹き花を咲かせたとか、そういったことは聴き流すのみだ。
だけど、目に見えるものはとりあえず信じる柔らかさはあると思っている。


なにが、言いたいのかというと、

「今日は遅かったですね。立花さん」

……。


「立花さん?」

その声に、私は一時思考を止める。

困ったように眉を曲げて、首を傾げる。さらりと髪が揺れるその様子。
ああ、うん。あざとい。君ってば、ほんと、何者。いや、分かってるんだけどさ。

「…いや、なんでもない。ちょっと君に見惚れちゃって」

私が誤魔化したようにへへ、と笑うと、なんですかーそれー、と照れたようにはにかんで笑顔を見せる。
私の歯の浮くセリフも素直に受け止める彼。これが、なんと純粋培養なのだから仕方ない。

見惚れた、と言っても間違いじゃないのは彼の容姿だ。ナチュラルな銀髪、深い蒼の瞳は優しく。通った鼻筋、唇の位置まで、どこまでも黄金比。
日本人にはあり得ない色彩は、染めたものではなく、彼の素の姿である。まあ、なんというか、非常に芸術的な美形だ。
ただ、その完璧な顔立ちの頬にうっすらと傷跡があるのを見て、私は密かに胸を痛める。

なぜなら、あれは、私がつけた傷だから。


「さっ、仕事しましょう?」

彼はそんな私に構わず、デスクに向かって優雅に手を伸ばす。どこの執事だと聞きたくなるくらい綺麗な誘導だ。

「今日の僕も完璧ですよ」

にっこりと、笑う彼。まるで、私の為だけにそう在るかのように錯覚してしまうのは、やっぱり疲れているからだと思いたい。

就業時間も終わり、いつものサービス残業。年末が近づくと、経理の私の仕事はぐっと増える。
相棒片手に、無言で処理をするのだけど、その相棒というのが、まあ、少し変わっていて。

「あ、ここの計算間違ってます。この日付は日締めで次の日に持ち越された分ですから、こちらで合計を出さないと」

耳元に響く優しい声に、彼といると私はダメになる、そんな気がしてくる。何度もいうけどさ、疲れているな、と断言できるの。私は現実主義者だし、非現実的なことを真っ直ぐ受け止めるファンタジー精神も持ち合わせてない。だけど、実際、『彼』は私の目に間違えようもなく、映るのだから仕方ないじゃないか。


「さ!遠慮なく僕を使って下さいね?」


良い笑顔で、好意を全開にして私をキラキラした瞳で見つめる彼は、私の気が確かなら、

「……さすが、電卓だよね」

そう、電卓だ。

「はい!」

相変わらずの素敵スマイル。
意味わからない?私もわからない。ただ、分かるのは、彼が電卓だということだ。

残業したある夜。
私は定位置に見当たらない電卓を探していた。するとどこから現れたのか物音も立てず、「僕をお探しですか?」と彼が現れたのだ。
勿論、初めは、何言ってんだこの美形、何人なの?というか不法侵入?あれ、私鍵かけたよね?とか色々考えたんだけど、どう対応しても「僕は電卓です」としか言わない彼に私が、じゃあもうそれでいいよ。と負けた。
おかしいでしょ、とツッコむのはやめてね!分かってるよ!
でもしょうがないじゃんか!この電卓で計算した帳簿や書類、彼全て頭に入ってんだもん!それこそ何年も前のすでに処分した書類までも!しかもめっちゃ計算早いからね、彼!なぜなら電卓なんだって!

まあ上げればキリがないけど、私がこの荒唐無稽な話を最終的に事実と受け入れたのは、単純な話。
色彩が私の相棒の電卓と一緒だったからだ。
シルバーのボディに濃いブルーの数字。同期も同じ物を持っているけれど、唯一違うのはーーー不注意で落としたせいで出来た傷。

私は、息がかかるほど近い彼を見つめる。
視線に気づいたのか、彼は不思議そうに私を見た。

私は、ゆっくり彼の傷をなぞる。

丁寧に、優しく、そっと。

「……ごめんね」

小さな私の声が静かなオフィスに落ちた。

彼は、苦笑すると私の手を握って、ちゅ、と口付けた。

「僕が貴女のモノだと、唯一分かるシルシです。 新しいものに変えられるかもと焦りましたが、貴女は僕を大事にしてくれ続けたから、」

一度、言葉を切って彼は嬉しそうに笑った。

「貴女につけられた傷、僕の誇り」

ああ、なんて良い子。

前に、君は良い子だね、というと、『計算してますよ?』なんてシャレみたいな事を言ってたけど。

入社して十年。普段は電卓として正確な数字を叩きだしてくれる無機質な彼は、こうして奇跡みたいに人型になったら、その好意を隠すことなく表してくれる。ほんと、これ、駄目になっちゃうなぁ、と私は苦笑した。

彼は私の髪を掬って口付け、それから耳元に顔を寄せる。
それから、少し泣きそうな顔で、不安気に、だけど諦めるかのように、小さく私に懇願した。

私は、それを聞いて、あははと笑い飛ばす。
彼はそんな私をみて、怒った様にふくれっ面をしたけど。


だってさ、無用な心配だよ?



『どうか、僕を捨てないで』


別に君が、不思議な電卓でなくても、私が君を手放す日なんてないだろうから。






fin



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