楓の季節
5月の中旬ごろの木曜日、私が4限の授業が終わった後に図書館で授業の課題をやっていると、ポケットに入っている携帯が小さく震えた。
電話かと思って急いで取り出したら、一通のメールが来ていた。
「あれ、水野先輩…」

今日の6限後から、執行部員のみんなで遊びに行かない?
まだ新入生の子達の歓迎会をしていなかったから、今日やりたいねーって言ってたの。
もし来てくれるなら、5時10分までに部室に来てくれる?
よろしくー!

ちなみに、部室というのは学生センター棟の1階にあるあの部屋のこと。
執行部員のメンバーで遊びに行くって、どこに行くんだろう。
ちょっと気になったけど、誘ってもらえたことがすごく嬉しい。
顔が緩むのを頑張って押さえながら、先輩に返信した。

ぜひ行きたいです!
すごく楽しみです。

携帯をポケットにしまった後も、なんだか楽しみでそわそわしてしまう。
そのあとは、気分の高揚のせいか、前よりも課題がはかどったような気がした。

5時の鐘が鳴ったのと同時に、大急ぎで机の上の私物をリュックに放り込んで、図書館を小走りで出た。
図書館から学生センター棟までは5分とかからなかったけど、部室に行ったらすでに結城先輩と橘先輩、そして倉間姉弟がいた。
「あれ、もしかして私遅かったですか?」
「全然大丈夫だよ!まだ1年生で来ているのは御園生さんだけだもん。今は甲斐くん、菅原さん、成田くんを待ってて、他の人たちは先にお店に行ってるの」
千夜先輩が教えてくれた。
「こんにちはー!俺らセーフですか?」
と言いながら成田くんが駆け込んでくる。後ろから菅原さん、甲斐くんも続いて入ってくる。
「全然大丈夫だよ。じゃ、揃ったことだし、行こうか!」
結城先輩が椅子から元気よく立ち上がり、ドアに向かって歩き出す。
後ろから千夜先輩がせかせかとついていく。クールな一夜先輩は余裕たっぷりでその後ろに、そして1年生たちがそのあとに続く。最後に橘先輩が部屋を施錠してから出た。

「今日ってどこ行くんですか?」
後ろを歩いている橘先輩を見上げながら聞くと、
「ん?今日はね、カラオケに行くよー。ご飯がまずいチェーンのカラオケ屋さんじゃなくて、個人経営のご飯が美味しいお店」
という返事が返ってきた。
「カラオケは…なんか緊張します」
「え?なんで?」
「あんまり知らない人たちの前で歌わないですもん」
「そんなことないでしょ?もう俺たちは執行部員同士として立派な知り合いだから、緊張することないよ」
にっこりと笑ってそう返されると、もうなんにも言えない。
カラオケに行く、って聞いてからは、楽しみのなかにちょっと緊張が混じった、不思議な気分だった。

目的のお店は、確かにパッと見カラオケ屋さんに見えないくらい、おしゃれな白い建物だった。
先輩たちに続いて部屋に入ると、そこはかなり大きめの個室だった。照明も凝っていて、ステージやスタンドマイクまで用意されているパーティールームだった。
すでにステージには、水野先輩が歌う準備万端でスタンバイしている。
「あっ、来たー!座って座ってー!」
水野先輩が可愛くみんなを促してくれる。
私は、千夜先輩と甲斐くんの間に座る。と、水野先輩が歌う曲が流れ始めた。
アリアナ・グランデの『Put your heart up』。
水野先輩の雰囲気、声質にすごく合っている曲だ。難しい音の跳躍や高音も、澄んでいて綺麗。
水野先輩が歌い終わると、次は佐々木先輩が立ち上がった。
佐々木先輩も歌うなんてちょっと意外かも…。
なんて、ちょっと失礼かもしれないけど、私の中のイメージでは、佐々木先輩はカラオケでも聴くほうに回っていそうだった。
佐々木先輩が歌い出したのは安室奈美恵の『Come』だった。
大人っぽい雰囲気が、すごく佐々木先輩らしい。この曲なら、佐々木先輩が歌っていても違和感がないかも。
なんて、さっきよりもっと失礼なことを考えていると、千夜先輩が曲を入れる機械を私に差し出しながら、
「歌、入れないの?」
と聞いてきた。
「あ、ありがとうございます…」
ちょっと迷いながら端末を手にして、曲を探してみる。
今までカラオケに行ったのはほんの数回だから、レパートリーが少ない。
音を外さずに、歌詞も間違えずに歌えるものを…と思いながら入れたのは、伊藤由奈の『Precious』だ。
これなら、一応まともに歌える。はず…

マイクが回ってきたので、恐る恐る立ち上がって、曲が始まるのを待つ。
普通は最初にボーカルから始まって、後からピアノやオケが入ってくる。だけど、カラオケだと親切に、ピアノの音から始まる。
ちょっと目をつむって気分を落ち着けてから、歌い始める。
この曲は、曲調はすごく好きだけど、歌詞にまで完全に感情移入することはできない、といつも思う。
今まで、恋なんてしたことがない。小さい頃は、いつかは樹兄か聖兄と結婚するんだと、本気で思っていたこともあったっけ。
今まで、家族以外で、家族と同じくらい大切と思える人はいたことがない。
いつかは、いつの日かは、この歌みたいに、苦しみも一緒に分かち合いたいと思える人ができるのかな。
この歌みたいな、素敵な恋をして、いつかは結婚できるのかな。

気がつくと、私は歌い終わっていた。
いけない…いつも、歌を歌う時は歌詞のことを考えながら、連想で色々なことを考えてしまって、どこかの世界に飛んで行ってしまう。
毎回毎回、樹兄たちに呆れて笑われることだ。
慌ててマイクを次の人に渡して座ると、さっきまで甲斐くんが座っていた席に、今は結城先輩が座っていた。
あまり結城先輩と話したことがないので、ちょっと緊張しながら隣に座ると、先輩が話しかけてきた。
「御園生さんって、結構歌えるんだね?」
「そうですか…?あまりカラオケに行ったことはなくて、今まで樹兄とか聖兄とした行ったことがないので、あまり慣れていないんです。それに、2人ともすごく上手なので、いつも自分を樹兄たちと比べて劣等感を感じちゃいます」
「確かに、あの2人の安定感は半端じゃないよね。俺も何回か一緒にカラオケに行ったけど、めちゃめちゃうまいと思った」
「そうなんです」
と、その時、他の先輩たちがヒュー、とはやし立てるのが聞こえたので、誰が歌うんだろうと思ってステージのほうに目をやると、それは橘先輩だった。
イントロを聞いても、何の曲か分からなかった。
「この曲はSEKAI NO OWARIの『眠り姫』。一の十八番なんだよね」
「あ、セカオワの曲なんですね…」
SEKAI NO OWARIの曲は、何曲か好きで持っているけど、この曲は聴いたことがなかった。
聴いていると、ファンタジックで明るい曲調にそぐわない、悲しい歌詞に驚いた。

『ある朝僕が目を覚ますと この世界には君はいないんだね
 驚かそうとして隠れてみても 君は探しにこないんだ』

サビの部分にはいると、歌詞はさらに悲しい内容になる。

『君はいつの日か深い眠りにおちてしまうんだね
 そしたらもう目を覚まさないんだね
 僕らが今まで冒険した世界と僕は1人で戦わなきゃいけないんだね』

大切な人が死んでしまうことを恐れているような内容。
いや、ような、ではなくて、本当にそうなのだろう。
段々とパーカッションが増えていって、ビートも細かく速くなっていって、メロディーだけを聞いているとちょっとウキウキしてくるような歌だけど、歌詞はまるでそんな感じではない。
なんとも言えない、不思議な歌。
さらには、今まで聞いたことがないような橘先輩の甘い声、切なそうな表情に、私は釘付けになってしまった。
聴いていると、胸がぎゅっとしてくるような歌。

歌い終わると、橘先輩はいつも通りの爽やかな顔に戻って、マイクを結城先輩に渡しに来た。
曲にあった表情を作っていたのかな。でも、あれを続けられていたら、本当に悲しい気分になっていたかもしれないから、すぐに元に戻ってくれてよかった。
「次は俺の番だね」
そう言うと、隣に座っていた結城先輩ははずみをつけてソファから立ち上がり、ステージに向かって行く。
入れ替わりに、橘先輩が私の隣に座った。
私は、橘先輩のさっきの表情がまだ忘れられなくて、なんだか変にドキドキしてしまった。
そんな私に気づかず、橘先輩は端末を持って顔を覗き込んでくる。
「ねえ御園生さん、一緒にデュエットしない?」
「え、デュエット、ですか?」
「うん。なんかさ、さっき御園生さんの声を聞いていたら、俺らの声質が合いそうな気がしたんだよね」
「……でも、私、歌える曲少ないですよ?」
「そうだね…コブクロと絢香の『あなたと』なんてどう?これは歌える?」
「あ、それなら一応歌えます」
「よし、これにしよう!」
そう言って、ポチッと押す。

『あなたと』は、前に樹兄が、デュエットの定番曲だから歌えるようになっておいたほうがいい、と何回か一緒に歌ってくれた曲だった。
その時は、「歌えなくてもどうってことないのに」なんて思っていたけど、今となっては樹兄に感謝。

「はい、御園生さん」
橘先輩がマイクを渡してくれて、私たちはスクリーンの横に並んで立った。
「え、先輩、御園生さんとデュエット?」
「いいなぁー!お前、うらやましすぎるぞ!」
吾妻先輩と松本先輩が口々にいう。
「いいだろー。しっかりと聞いていろよー!」
橘先輩はそう言うと、スクリーンに映し出される歌詞に目をやる。

『さっきまで泣いていた君が 今隣で笑ってる
 少し先に待ってたこの未来にたどり着けてよかった』
『”君を傷つけたくない” この言葉に逃げていた
 本当は誰より自分が一番傷つくのが怖くて』

サビの部分に入る前に、一瞬、お互いにアイコンタクトを取る。
そしてサビの部分に入った途端、すごい、と思った。
難しいハモりも完璧。息もぴったりで、こんなに一緒に歌っていて気持ちが良いと思ったのは初めてだった。

歌い終わって席に戻る直前、橘先輩に呼び止められた。
「御園生さん、また一緒にデュエットしようね」
「はい、ぜひ!」
どうしよう、すごく嬉しい。
歌ってなんだか人と人をつなげてくれるものだと思うから、まだそこまで話したことはなくても、ちょっと通じることができた気がした。
< 12 / 13 >

この作品をシェア

pagetop