御曹司と愛され蜜月ライフ
履き慣れたクロックスをつっかけ、狭い玄関を出る。

自分の部屋の鍵を開け、中に入った私は、閉じたドアに背をつけたままずるずるとしゃがみ込んだ。



「……ッ、」



ぽた、と、空っぽになったはずのティーカップにしずくが落ちる。

それが自分の目からこぼれた涙だと気付いたとたん、私は声がもれないよう、右手の甲をきつく口に押し当てた。



「う……ッ、……ッ、」



いけない。声を出したら、いけない。

だって、もし声がもれたら……この薄い壁の向こうにいる人に、自分が泣いていると気付かれてしまう。

それはだめ。絶対に、だめだ。


くちびるを噛みしめながら、声をおさえる手を外して右の耳たぶを触る。

でも、そこには何の感触もない。……ああそっか、今日は休日だから……壊したりなくしたりしないよう、課長がくれたピアスは外したんだ。


……なくしたく、ないから。壊したく、ないから。

大事、だから。



「……ッ、ふ……ッ、」



私って、自分でも思ってた以上に馬鹿だったんだなあ。

だって、もう恋はしたくないって思ってた。するもんかって、言い聞かせてたのに。


頭の中、簡単に思い浮かぶ。私をからかう近衛課長のちょっと意地悪な表情とか、メガネを外すと少し幼くなる笑顔とか、仕事中の真剣な眼差しとか。

こんなに焼き付いて、もう、消せない。


触れるほど近付いた距離に、鼓動が速まった。助けてくれた腕のぬくもりに、ひどく安心した。彼の名前を呼ぶ女性の存在に、息が止まった。

ここから、彼がいなくなると知った今。こんなにも胸が張り裂かれそうに、苦しい。

これが恋じゃなかったら、一体どんな感情を、恋と呼ぶのだろう。


……近衛課長、ごめんなさい。私はあなたに、身の程知らずな恋をしてしまいました。

すきになって、しまいました──……。
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