御曹司と愛され蜜月ライフ
まだそう日が経っていないせいか、今でも簡単に思い出せる。

至近距離で見た、あの無駄に整った顔。……それから、ひそめられた低音ボイスにグリーンシトラスの香り。



『俺が、このアパートに引っ越して来たことだが。他の人には──特に会社の人間には、絶対話さないように』



月曜日のあの出来事から、会社では数度その姿を見かけた。

けれどもこっちは受付で来客の対応をしてるし、向こうも向こうで常に忙しなく動き回っている。

アパートの隣人だからって、前より話すようになったってこともない。今までと変わらない、ただ同じ会社に勤めてるってだけの関係。そもそも近衛課長自体がハイツ・オペラのことを隠したがってるみたいだから、変わりようもないんだけど。

私だって面倒くさいことには巻き込まれたくないし、ペラペラあのことを誰かに話すつもりはない。


……でも、やっぱり考えるのだ。

どうして課長は、あんなふうにわざわざ私を捕まえてまで引っ越しのことを口止めしてきたんだろう。

住んでるのが安アパートで恥ずかしいから、ってことでもなさそう。じゃあ、なんで?



『きみがこの約束を守るかぎり、俺も昨日のきみのだらけっぷりは胸の内にしまっておくことにしよう。だけどもし、俺がここに住んでいることを誰かに話そうものなら──』



なぜか思いっきり私に顔を近付けて話した、近衛課長のセリフが脳裏に浮かぶ。

……私の、だらけっぷりって。たしかにまあ、アレは進んで公表したい姿ではないけど、それでも特別隠しておきたい秘密ってわけでもない。

だけど、問題なのはその後。もったいぶるように語尾を区切って、結局その続きを話すことはなかった言葉の続きだ。


『話そうものなら──』の後に続くのは……もしかして『地方の営業所に飛ばす』とか、いっそ『クビにする』とか?

おそろしいけどありえる。だってあの人はこの会社の次期社長、御曹司なのだ。しがないOLひとりの首を切るなんてこと、造作もないに違いない。

私の干物っぷりをバラされるのはたいした痛手じゃないけど、職を失うのは非常に困る。だから私は、今日もおとなしく口をつぐんでいるのだ。


あの安アパートで、ただのんびりと暮らしていたい。

自分の下手な言動で平穏な日常を壊されるのは、私だって本意ではありません。
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