空に話し掛けて
私の過去
私がまだ26歳の頃、付き合っていた彼と婚約して、式場選びをしてしていた時、妊娠が分かった。
その事を、彼に報告した時から違和感があった。
「嘘だろ?」
私はびっくりしてしまった。

その頃、悪阻も酷くなり、結婚式をする気力もなく、入籍だけにしようという事で決まった。
一緒に住む部屋を決めて、新婚生活が始まった。
でも、思い描いてた幸せが崩れていっている事には、この時気が付かなかった。

妊婦健診は常に一人で行っていた。
何度目かの健診で安静指示が出された。そして、流産しかかっているとまで言われてしまい、薬も処方された。
その事を彼に告げても、「薬を飲んでれば大丈夫だろ?」としか言われなかった。その時の私は少し寂しくなり、俯いたまま「そうかもね…」と返事だけした。

妊婦健診は毎週来るように主治医から言われていたので、翌週もその翌週も行っていた。
決して一緒には来てくれなかった。
そして、胎動を感じ始めた頃、絶対安静の指示。いわば、切迫流産。
それを伝えた頃から、幸せが音を立て始めていた。

絶対安静を知っていた母は、新居に来ていろんな事を手伝ってくれていた。
その事を知った彼は「勝手にあげんなよ!」と言ってきたのだった。
勿論、私とお腹の子の事は知っているのに…。
買い物も手伝わなくなって、自分の事を優先し始めた彼に付いていけない私がいたのだった。

ある時は喧嘩になり、お腹の子が心配だが、お弁当は欠かさず作っていた。
しかし、帰宅した彼は手付かずのお弁当を私の眼の前で「こんな物食えるかよ!」と捨ててしまった。

その後は、何度も家出をして実家に帰っていた。
けれど、迎えに来る事も全くなかった。
四度目の家出は全く記憶がない。
気が付いたら、実家に程近いコンビニにいたのだった。
我に返り、母に電話をした。
すると、何も言わずに迎えに来てくれたのだった。実家までの5分間、「もう我慢しなくて良いんだよ」とまるで幼い子どもを諭すように優しい口調で言ってくれた。
奇しくも、私の27歳の誕生日の前々日だったのだ。

それから、一ヶ月過ぎようとしたある日、一本の電話が鳴った。
開き直り、電話に出た。
「いつ帰るんだよ!」といきなり言われた。
少し間が空いて、私が答える。
「書いて欲しい物があるから、休みの日に一旦帰ります」それだけ言い、私は電話を切った。

後日、彼の休みの日に、書いて欲しい物を持って帰った。

リビングの椅子に座っていた彼にそれを差し出した。

私の分は記入済みの離婚届。

彼は目を丸くして、呆然としていた。
その間に部屋を見渡した。
私もその部屋を見て呆然とした。
私の物は全て別室に運ばれていたのだった。
しかし、それが私の迷いを吹っ切らせてくれたのは言うまでもない。
重い口を開いたのは彼の方だった。
「子どもはどうするんだよ…」
すかさず、「産んで育てます」ときっぱり言い切った。
それを聞いて苛立ちが頂点に達したのだろう。
「金は一銭も払わねーからな」
予想してた言葉だった。
「構いません。その代わり会わせませんから」
その言葉に、一瞬言葉をなくした彼。
何を言っても無駄だと思っただろう彼は捨て台詞を言ってきた。
「そんな子どもになんか会いたくねーよ!」
「じゃあ、サインしてくれますね?」
そのやりとりをお腹の子はしっかり聞いていたに違いない。
私は心の中でまだ見ぬ我が子に謝っていた。

ようやくサインをした彼に私は、「荷物は貴方が仕事に行っている間に運びますから、会うのはこれが最後ですね。鍵は荷物を運び終えたらポストに投函しますから」それだけ言うと、踵を返し部屋を後にした。
翌日、市役所に届け出た。

そして、私は旧姓に戻り、穏やかに過ごすことが出来たのもつかの間。

切迫早産で、緊急入院を余儀無くされた。
24時間点滴、部屋からは出る事もできない。
毎日毎日退屈だったが、安静に出来るから、良かったと思う事にした。

年の瀬に入院なんて…。

ただ、辛かったのは、早産止めの点滴で全身に湿疹が出来てしまい、大晦日の夜、主治医の判断で、点滴を外す事になった。
「いつ陣痛が来てもおかしくないからね?34週未満の場合はお子さんは別の病院に転院だから、それは了承しててもらうからね」という事だった。

年が明け、34週と1日になった朝。お腹がとても痛くなってきてたので、看護師さんにその旨を伝えた。

お昼過ぎに、母がお見舞いに来てくれていたのだが、これから診察する事になり、主治医が触診をしたところ、子宮口が開いているとの診断。

お腹の子は逆子。
これから帝王切開手術をする事になってしまった。

突然の事で、動揺していた私は「いつですか?」などと聞き返してしまっていた。
勿論同室の方もびっくりされていて、泣いていた方もいてくださった。

テキパキと手術の準備をされている時に、ふと、母がいない事に気が付いた。
看護師さんに聞いたところ、「荷物を取りに帰られました」と…。

そして、病室から手術室まで、完全にひとりきりだった。
1月5日、16時16分
とても小さな女の子がか細い産声をあげてくれた。

その小さな天使は、1700gとちょっとの体重だった。勿論、保育器に入る事になってしまった。

数日後、歩行し始めてから対面した可愛い娘に会いに行って、保育器の中で、抱っこした。
両手の掌に収まってしまうぐらい小さな子。
それでも、懸命に生きていてくれた。

私の退院の日、娘とは一緒には退院出来なかった。
翌日から、母乳を搾乳しては病院に届けてという毎日。

しかし、私は知らなかった。
出産300日以内は相手の戸籍に入ってしまう事に。
それからは、彼の戸籍謄本を取り寄せ、家庭裁判所に行き、氏変更届を提出しなければならなかった。

約一ヶ月で手続きが完了したと通知が来て、晴れて私の苗字になれたと同時に、娘は退院出来た。

しかし、この後から私と母の地獄が始まるのだった。
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