眩暈
そして夜中もだいぶ過ぎた頃、彼は帰って来る。一人で帰って来ることもあれば、誰かと一緒の時もあった。朝起きて、閉められた彼の部屋の扉の前に、女性の靴を見つける。それはまるで“立入禁止”の合図。私は煙草を吸いながら、そこに置かれた靴を見つめる。スニーカーでこそなかったけれど、ヒールのない靴。色気のない靴を履いている女性を私は想像した。私だったら、男に抱かれるその日にこんな靴は履かない。どんなに足が痛くても、私は高いヒールを履くだろう。苦痛に負けた女たちを、私は哀れに思った。そしてそれをぼんやりと眺めるしか出来ない自分を、それ以上に哀れに思った。ベルリンの女性たちはおしゃれではあったけれど、高いヒールを履いている女性をほとんど見かけなかった。ヒールを履くこと自体、場違いな気もするが、私はルカの部屋の前に置かれたフラットシューズを見る度に、一生ハイヒールの奴隷でいることを決意するのだ。

「パリにいた時はいつもヒールを履いていたけどね、ベルリンでハイヒールなんて必要ないわ。だってこのでこぼこの石畳の上をハイヒールで歩くなんて、無理じゃない?」
アフリカ系フランス人のラマは言った。ラマのスレンダーな体と美しい肌に私はいつも見とれる。きっちりと編み込まれた黒髪に私はいつか挑戦してみたいと思うのだけれど、いかにも東洋の彫りの浅い顔にはそれは似合わないこともわかっていた。
「あら、私はそのストレートな髪が羨ましいわ」
ラマはそう言って私にウインクした。女性なのに、私はドキドキしてしまう。彼女とは、どこかのバーで会ったことがきっかけで仲良くなり、少なくとも一ヶ月に何度かこうやって集まって飲んでいた。廃墟になった工場にアーティストの絵がところ狭しと描かれている。バーやナイトクラブの集まるこの場所は、私がベルリンで最も好きな場所の一つだった。そのクールな場所で、ラマはさらに美しく見えた。彼女にはいつも男性の視線が張り付いていたし、彼女は十分にそれをわかっていた。私はラマに、ルカについてよく話した。彼がどう言った、彼がどうした。時には嬉しそうに、時には憤慨して。ラマは初め、興味深そうに聞いていたけれど、突然真面目な顔をして言った。
「ちょっと待って。あなた、彼に恋しているの?」
私は、ノーと即答出来なかった。
「わからない。でもいつも彼のこと考えているの。時々、寝てみたいとも思うわ」
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